ジョン・デューイ(1924)「ファンダメンタルズ」(翻訳)

※無料公開範囲は解題のみ。翻訳本文は約6000字。

アメリカの哲学者ジョン・デューイは、第一次世界大戦中のインタビューの中で、「新しい変化が起こったとき、その時には、まだ私たちは先例に縛られているので、その変化が意味するものを答えることができない」という趣旨の言葉を残している。

ここに訳出した「ファンダメンタルズ」という論文は、ある出来事の行く末が定まりつつあるときに、その出来事がもたらした「変化が意味するもの」を語ろうとするものだと言うことができる。

「そこには確かに新しい変化が生じており、その変化を生きている私たちの側に、何かを突き付けており、私たちはそれに応答する必要がある」というようなことを、デューイは考えている。

ここで問題になっている変化が何を指すかは、「ファンダメンタルズ」という言葉に端的に表現されている。それは、キリスト教原理主義の台頭だ。原理主義の「出現」と言った方がいいかもしれない。

キリスト教のファンダメンタリスト、つまり、原理主義者は、1910-15年に刊行されたThe Fundamentals(脳内でイタリックにしてください)という12巻からなるパンフレットに由来する名前である。この名前は、近代化の中でリベラル化していく神学に違和感を持つものにとって、魅力ある言葉として流布していく。

「1920年に開催されたバプテスト〔派〕の会合では、聖書のファンダメンタルズ(根本的教え)のために忠実に戦うクリスチャンが『ファンダメンタリスト』と呼ばれ、超保守的なキリスト教を強力に宣揚する者の代名詞として、広く使われるようになった。」八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(朝日文庫 2012年)200頁

近年は、「原理主義」という言葉にネガティブな印象が付き纏うため、自称としては用いられなくなっているものの、少なくとも20世紀前半のアメリカでは、非常に強い魅力を持つ言葉だった。

デューイが"Fundamentals"で論じるのは、このキリスト教原理主義である。彼らのパンフレットから、唯一性・固定性を含意させる定冠詞Theを抜き取っていることに、デューイの思想のスタイルを見て取ることができよう。(例えば、「私はなぜ共産主義者ではないか」でも、「大文字のコミュニズム、ソ連型コミュニズムには決して乗ることができない。小文字の定冠詞抜きの様々なコミュニズムがあり得たなら別だが」という趣旨の発言をしている。)

あまり注目されることのないこの小論で、デューイは原理主義に過度に敵対的というわけではない。どちらかというと、彼の批判の矛先は、リベラルなキリスト教陣営に向けられている。デューイ自身(彼独自の意味ではあるが)リベラリストを自称しており、また、多くのリベラルな神学者と協力的に活動したり、敵対的・友好的な論争をしているように、リベラルな陣営とはごく距離が近い。

にもかかわらず、彼の批判的視線は、(原理主義陣営ではなく)もっぱらリベラル陣営に向けられている。ごく端的に今風に表現すれば、「もっと熱くなれよ」という鼓舞ではあるのだが、どのように/なぜ熱くなる必要があるかというデューイの指摘については、本文で確認してもらいたい。

ここから先は

6,565字 / 1画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?