三十一文字への追伸――穂村弘の例の短歌に寄せて

かつて『京大短歌』に寄せた、短歌評です(まぁ、エッセイとして読んでください)。少し加筆修正しました。精緻に考えれば、よくわからない箇所もあるけれど、イメージ連鎖的な文章はかつてから変わっていない。文芸誌『カラフルパッチワーク』に書いた小説に繋がるものがずっとあったのだな、と思う。

この時すでに、マフィア的なものに興味を示していることも面白い。というのも、こんなことをブログに書いているのです。(なお、投げ銭制です。気が向いたらどうぞ。)

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子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」穂村弘

歌人・穂村弘のデビュー歌集、『シンジケート』の表題歌。この歌のイメージを述べるより前に、そもそもの言葉の意味を確認をする。「シンジケート」とは、企業の連合や労働組合を指すが、俗には犯罪組織を意味している。

この歌のイメージを別のコンテンツになぞらえると、武器商人を描く『ヨルムンガンド』、運び屋稼業の『ブラックラグーン』が思い浮かぶ。ハードボイルドで、ドライなくせに時々かっこよく人を助けたりする。古くは「カウボーイビバップ」もこのイメージ。 犯罪組織に、用心棒、賞金稼ぎといったところか。一見、血と銃と暴力を連想させる。

いや、待て。この歌において、「シンジケート」という言葉は、子供と対比されている。子供が中心に来るような集団とはなにか――端的に「家族」だろう。それに対比されるような仕方で、シンジケートに託されたものはなんだろうか。

この「シンジケート」という言葉で思い浮かぶ別のイメージは、直木賞作家桜庭一樹の『推定少女』だ。作中で「シンジケート」はゲームの名であると同時に、そのゲームの舞台になっている遠方の惑星世界の名でもある。その惑星は、主人公と共に逃避行を繰り広げた、白雪というキャラクターの故郷でもある(かもしれない)。戦争が起こった「シンジケート」という星から、白雪は逃げ出した。その一方で、主人公の友人は、まさにその戦争に、傭兵的に参加すべく旅立つ。縁もゆかりもない星の、戦争のためのシンジケートに、その友人は参加した。 

ここで、「ゴッドファーザー」『ガンスリンガーガール』のような、マフィアを想起してみよう。シンジケートとはいわば〈家族=ファミリー〉だ。血よりも濃い絆で結ばれ、互いに鎖をかけあうように、きつい信頼関係にある。流通する権威は、力であると同時に気前であり、義理だ。この点に限れば、日本国内でも同様で、例えばヤクザ的な絆は、作品で義理人情として表象される。 しかし、この共同体はピラミッド的で、垂直性が強すぎる。

「シンジケート」は、きっと、そういう暴力的な「家族」でなくてもいい。身近な事例をイメージできるよう、ゼロ年代批評的な文脈にズラせば、〈家族=ファミリー〉とは「擬似家族」だと言える。偶然によって共にあり、一緒にいる必然性のない人々による集団。常に別れの可能性を孕み、それでも共に過ごすような〈家族〉。血や地の関係とは関係のない、広義の「家族」、擬似的な家族。  運命論的に表象される「恋愛」とも違う。偶然しかない、風が吹けば飛ぶ。それが「擬似家族=シンジケート」だ。衝けば抗争や闘争が発生するような、相互監視・抑圧共同体であるという点で、マフィア的な「家族」も、同様に脆いものでしかない。

「子供」と「シンジケート」、家族と「ファミリー」、家族と「擬似家族」――このような対比・比較に私は取り憑かれた。

比べる。並べる。対する。対照する。

考えてみるまでもなく、人は「比較」なしに生きることはできない。多い、小さい、長い、遅い、厚い、寒い……。形容詞も暗黙の比較に支配されている。基準に「普通」という観念が介在しているし、常に彼我を比べることで、「形容」は成り立っている。

思えば、その「普通」という観念も、自分の見ている世界の、自分が思う適当なスケールに基づいている。『進撃の巨人』の巨人や、ゴジラのサイズに生まれついた時に、何が普通の「大きさ」か、考えるまでもない。 


どういうわけか、この学校に通い、恋人を作るでもなく本ばかり読んでいる。どういうわけか、このサークルに入って、こんなエッセイを書く。例えば、このような「偶然」。 

「普通」に出会った、偶然の人達の、束の間の集まりを、「それでも」と必然化する。「シンジケート」は、そのようにして能動的に作るものだ。常に確認し合う。でなければ失われる。もはや、全員に共有された「普通」はないのだから。

このように、撹乱された「普通」の中、それでも共にあった過去を確認して、今日を過ごす。共有してきた時間だけが、「シンジケート」が参照できる物語なのだ。

私は穂村弘に影響されて変な歌を作った。

映画より君の昨日を見に行こう 小さな肩が血に濡れる日は

普通に考えて普通ではないと思うかもしれないけれど、冷静になれば、全員が共有する普通などないというのは普通の考えだろう。普通ではない普通が、私たちの普通。これが普通の比較であり、普通のシンジケート。普通ではない人のための、いたって普通の言葉だ。

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