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【ホツマ辞解】 〜大和言葉の源流を探る〜 ⑧「くに」と「あがた」と「あれ」 <95号 平成30年2月>

 二月十一日は建国記念の日。明治維新後に定められた「紀元節」です。この日を「紀元」と看做すのはホツマ的には諸々異説も生じるところですが、今回は、暦ではなく「国・県・村」のお話しです。

 「くに」は何処からの視点で見るかによって意味が変わります。「あめ」に対しての「くに」は、「天地」の「地」を意味します。人の住む物質世界。この世。地球。大地を称するものであり「クニトコタチ」の「クニ」もこの意味と云えます。
次に、それを「(まとまった)政体」をもつ「国家・連邦」として表現する場合があります。この場合、中央に対して地方があり、地方国家が一定の自主権をもっていると看做すことも、ホツマ伝承の時代に於いては自明のことと考えられているようです。「くにうみ」とか「くにめぐり」とかの表現も、そこからうまれます。権威は中央にあっても、権限(権力)をもつ「くに」が複数ある、という考え方です。

『やもやくたりの みこうみて みなそのくにお をさめしむ』ホ2
『これくにきみの はしめなり』ホ2

 「アメをまつる」「キミ」のいる「くに」が複数あって矛盾しない、何故なら「あめ」が中央最上権威であるからです。

 三番目に「行政区画」としての「くに」があります。これは、「きしゐクニ」「こしクニ」「いよクニ」などであり、後の「紀州」「越州」「予州」などに引き継がれ幕藩体制をへて現都道府県の枠組みに変遷しますが、日本全国「六十余州」の元はここです。この視点で見るときには、その首長は「くにきみ」(国君)とは(少なくとも中央「たかま」からは)呼称されず、「くにかみ」(国守)とか「くにつかさ」(国司)「くにつこ」(国造)と呼ばれます。

 行政区画としての「くに」の下には「あがた」(県)があり、その下は「あれ」(郷)があります。「あれ」の責任者は「あれおさ」と云い、「たみ」五世帯を取り纏める「てべ」(組長)を八十組まとめる責務を負います。(「むら」「まち」「いち」の用語もホツマにはありますが、後日)

 この行政形態とトップの名称は、その後の(奈良朝以降ご維新までの)日本史に深く関わりますので、行政官の職名と役割もあわせて、引き続き考察していきましょう。
(駒形「ほつまつたゑ解読ガイド」参照)

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我が国に「国家」が成立したのは、いつであるのか、という問いへの答えは、当然にしても「国家」の定義づけが前提となります。ホツマツタヱの時代には、「くに」その下に「あがた」さらにその下に「あれ」という行政単位があったことが明確に記述されています。

ですが、「くに」のさらに上に「あめ」があります。つまり、「天が下」に複数の「くに」がある状態です。では、複数の国々は、バラバラなのかというと、けしてそういう訳ではなく、「たかま」という最高議決機関の元にまとまっていたのです。「たかま」には、「ものべ」という武力軍事組織も存在して、「オオモノヌシ」が統轄していました。では、いわゆる中央集権的連邦であったのかというと、そうでもないようなところがあります。簡単に言うと、ゆるい、のです。ただ、皇君の権威は光輝に満ちており、すべての名誉は皇君からの、任命、称え名の叙勲に基づいていました。

さて、ただしホツマツタヱが語る古代の社会においても、アマテル大御神の即位前と、即位後、また、ご崩御の前とその後では、国家スタイルに大きな変化があったことが読み取れます。このことは、東アジアのみならず古代の世界情勢とも関連する変化でもありますが、封建制と郡県制にまつわる歴史的必然の側面もあると筆者は考えています。

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