日比野 翔

金沢の美術大学を卒業して地元企業に38年間勤め、8年前に定年延長1年で退職し今年70歳…

日比野 翔

金沢の美術大学を卒業して地元企業に38年間勤め、8年前に定年延長1年で退職し今年70歳を迎えます。悠々自適となったのは最近で、退職した年は帯状疱疹になるほど環境変化についていけませんでした。このnoteでは自分史とともに、定年後のあり方について投稿していきたいと思います。

マガジン

  • 定年後自分の人生を取りもどす

    自分の人生がどのような価値を持つのか、持たないのか書き出して改めて自問する、ほとんど自分自身のためのマガジン。つい甘くなってしまうのを避けてはいても、時代を生きた一人の人間を救い出したい思いを消せない。

  • 読書感想文(日比野翔)

    自分の読んだ本の感想文です。

  • 自分史

最近の記事

今世界で起きていること

一つの現実がヨーロッパとアメリカと日本で、受け止めに大きな違いがある。アメリカの上院ではイスラエルへの武器支援が可決された。それはラファへの空爆が戦争を終わらせるという論理だった。それは広島へ原爆を投下した理由と同じだ。アメリカ人の多数の意識は変わっていない。戦争をやめさせるのは武器ではなく、世論だという時代が人類にいつ来るのだろうか?

    • 鼓童との出会いで日本が好きになった。

      • 「世界で最も美しい溺れびと」を読んで

        読書後の感想を読書会用に前もって書いていた頃、書くことを習慣化しようという思いもあって結構頑張って書いていたなぁと、あの頃から月日の経ったのを感じた。読書会はもう8年も続いている。今日午後から8人の仲間で近くの公民館で開く。取り上げた本は、ガルシア=マルケスの「世界で最も美しい溺れびと」という短編だ。「世界文学アンソロジー」という短編集に入っていて、この本をテキストに選ばなかったら出会えない作品だ。必ずしも名作を期待して選んだわけではなく、短編が読書会にはちょうどいいと思った

        • 内と外を跨ぐ表現

          ブログという公開の日記でぼくには、内と外の境界を曖昧にしておきたいという自己表現上のこだわりがある。内に隠すことと外に出してしまいたいことがはっきり分かれない所に興味があるのかも知れない。いつも躊躇の状態のままダラダラと流れる意識に興味があって何なのだろうと書いてみる。でもどちらかというと、隠していたことを表に出してしまおうと思う時の方が書きたい気になっていると思う。表に出せない潜在している異常な心のこともある。誤解を生みそうで変人と思われて嫌われるのが面倒ということもある。

        今世界で起きていること

        マガジン

        • 定年後自分の人生を取りもどす
          35本
        • 読書感想文(日比野翔)
          29本
        • 自分史
          18本

        記事

          「いつ死んでもいい」という境地

          ついつい大袈裟に考えてしまう癖がぼくにはあるのだが、究極の生き方を昨日思いついて今日も実行してみると今までとは違った心の落ち着きを感じているのに気づいた。生き方というよりもちょっとした心の持ちようみたいなものだ。それは、いつ死んでもいいと思って毎日を過ごす、というものだ。「いつ死んでもいい」と気が向いたときに呟くだけで、何やら念仏みたいと今書いていて気づいた。そういえば今、加賀一向宗の時代小説を読んでいるのでその影響もあるのかもしれない。どんな人でも平等に「南無阿弥陀仏」と唱

          「いつ死んでもいい」という境地

          関心を自己から他者へ

          今まで書いてきたことは自分が果たしてどういう人間かを自分で知るためだった。どのように育ったか、大学入学、学生生活、職業選択、就職、結婚、サラリーマン生活、定年退職等をどのように経験し経過したかを書いてきた。正直に誤魔化さずに書いてきた。今月で71歳の誕生日を迎えるが、70年何とか生き繋いできたという感慨を持つ。つまらぬ人生とは思わないが、とても立派に生きたとは言えないのは確かだ。不器用で人との繋がりをどこかで避けてきた人生のように思う。仕事においては深入りしてきたが、プライベ

          関心を自己から他者へ

          日常に生還した兵士の休息

          身の危険に遭わされた時期があったことに今では信じられない思いがする。 何もいいことがなかったと嘆くことすら贅沢なことだった。 あれは理不尽だと言えるような日常が学生時代の圧倒的逆境に落とされることで一瞬にして奪われた。 日常の割れ目に突如静かに現れる戦闘が極度の緊張をもたらせた。 その時の肉体的反応がぼくの記憶に残っていた。 その戦闘状態から解放されたと感じられるように時代が変わった。 何よりも当たり前に生きていられることが最上の喜びだった。 とうとう身の危険が

          日常に生還した兵士の休息

          第2の肩書きに込められたもの

          ぼくが公共性に関心があるのは、自立の基準というか指標というか、とにかく個人の自由というだけでは足りないと感じるからだ。好きなことをやってればいいという個人基準のことではなくて、仲間とか地域とか共同体基準で自分が目指すものを持ちたいと考えている。個人それぞれが他人のために貢献したいという仕方で問題を立てるのではなく、個人一人ひとりの主観性が客観性に変わる場面の内面性を問題にしたいのだ。私人が公人になるには、何をどのように取り組んで自立という状態に持っていくかを課題的に明らかにし

          第2の肩書きに込められたもの

          生涯教育とは

          おそらく「生涯教育」という言葉は行政用語だと思う。私たちの読書会は、野々市市と石川県の生涯教育課の管轄下にあるらしい。図書館協議会という団体のメンバーに市の生涯教育課から推薦を受け、会議に参加して意見を述べると報酬が得られる。図書館からは何がしかの本を借りてほとんど毎日読んでいる。意見を求められれば読書経験から読書による自己教育の価値みたいなことを発言している。何を読むべきかに公共性があるとの立場を示しているので、与えられた役割は果たしていると自認している。しかし、改めて「生

          生涯教育とは

          石川子ども文庫連絡会への手紙

          突然のご連絡になり不審に思われたかもしれません。私は野々市市の読書会連絡協議会の藤井と申します。〇〇さんの連絡先は、石川県の読書会連絡協議会(以下読連協と略す)の事務局から教えていたただきました。〇〇さんは県の読連協の名簿には石川子ども文庫連絡会代表とありました。実は先ごろ県の読連協の理事会で、児童書の読書会の方々とも連携して読連協の活動の幅を広げたらどうかとの提案があり、村井会長から野々市市の読連協で連絡を取ってみて欲しいと指示を受けました。 私は28年前に金沢市から野々

          石川子ども文庫連絡会への手紙

          [自分史] 定年退職後の模索期1

          ついにCDを買う決心をしてCD屋に行くとぼくと女性店員だけだった。しばらく店内を探しても見つからなかったので、その女性店員の方へ行って「アジアンカンフージェネレーションってありますか」と尋ねた。一瞬彼女は思案したがすぐにその場所に案内してくれた。8枚ほどあった中でベストアルバムを選んで彼女のところへ持って行く。幾分嬉しそうな感じが素振りに出ていた。袋にCDを入れる時にフンと笑ったような気がした。ぼくはお金を払い、年甲斐もなくと思われていることに少し動揺したかもしれない。彼女は

          [自分史] 定年退職後の模索期1

          自分の郷土が舞台の時代小説

          たかが趣味の読書会サークル活動に、自分を向上させようとするまで打ち込まなくていいものよと思うのだが、趣味なだけにかえって拘ってしまうのかもしれない。自分の生き方が関わってくると考えるといい加減に出来ないのだ。文学散歩といった楽しみを小説を深く読むように、イベントとして企画してしまう。言わば時代小説の舞台を再現するための探究的な、文学散歩なのだ。加賀の一向宗が中心となった農民一揆の歴史的事実が我が郷土の中にかつてあった。空間的には確かに私たちの祖先の土地に一大事件として巻き起こ

          自分の郷土が舞台の時代小説

          仕事に精を出し休まない

          偉大な芸術家の仕事にどうして卑小な自分が嫉妬しなければならないのか。彼は晩年癌で闘病生活を余儀なくされた以外はこれ以上ないほどの幸せな人生だったと思える。音楽の才能一筋に自分の仕事をやり遂げて一生を終えることができたからだ。才能のある人の成功物語には充実した一貫性がある。仕事をやり遂げた人の人生ほど素晴らしいものはないと思える。仕事という活動の場が何より大事だと改めて思い知らされた。今のぼくにそれがない。ぼくの仕事は何か。生まれて死ぬまで自分の仕事が分からなくて終わるのは何と

          仕事に精を出し休まない

          日常と非日常

          昨日はよく晴れて気温も高かった。桜は満開になりお花見に母を連れて行こうと朝迎えに行くと、物憂がって家から出たくないと言ってキャンセルになった。それでは二人で行こうかと妻を誘ってみるとじゃあということになって、人混みはぼくも妻も嫌いなので、犀川沿いの河川敷の桜並木をお花見することになった。月曜なので混雑するほどではなかったが、メインのところではそこそこ賑わっていた。このように書いて普通にお花見を楽しんだことにすればいいのかもしれないが、ところがぼくの気分はどういうわけか沈んでき

          日常と非日常

          読書オタクのチョイワルじじい

          私小説は何処か知識人っぽい主人公の話ばかりで隔たりを感じていた。そこで企業小説や会社員小説の方に関心が向きだしている。身近かに感じる小説は感情移入がしやすいし、書く側に立って追創造することもできそうだ。それはかなりセミプロの領域に入るか、マニアックな趣味となって定年後の楽しみとして最適だ。マニアックなオタクというのも楽しそうだ。少なくとも既に一般大衆から個性的な人間になっている。個性的な人間というよりは面白人間というところだろう。テレビに出るコメンテーターや、ラジオに出るパー

          読書オタクのチョイワルじじい

          ブログに自分を書くことが自立につながる

          このブログ空間、何を書いてもどのように書いてもOKという、書いた文字がそのままフォントに再現されて目に前に現れるという仕組みに、今更ながら便利なツールが出来たものだと感心する。このお陰でぼくはいつでも好きな時に思うままを綴ることができる。それはどこまでも自分に感けられるということだ。自分をどうして捨てる必要があるものか。自分がなくてどうして実感を持って今を生きている、と言えるのか?たとえ誰かのために生きたとしても自分を捨てる必要はない。自分のままにその誰かに接すればいい。自分

          ブログに自分を書くことが自立につながる