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「断罪パラドックス」   第9話

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 一条くんの家は高台にある一軒家で大きな二世帯住宅だった。その大きな家の隣にあるクリニックの看板を見た時、ああ、地元でも評判のいい産婦人科の個人病院が一条くんのおうちなんだとようやく気づいた。一条くんが五分くらいで考えた筋書きが通用するのか私は不安でいっぱいだった。私が屋上から飛び降りようとしたその日は水曜日で看板から得た情報では休診日だったけれど、一条くんのお母さんは入院患者の検診だとかで、自宅の隣のクリニックから白衣を着たまま現れた。 

 広いリビングルームに通されて、高そうだけどモノトーンでどこか冷たいかんじのする固いソファーで、私は落ち着かず何度か座りなおした。私の隣に一条くんが座り、一条くんの正面に一条くんのお母さんが座った。私は一条くんの話に時々頷くだけで、黙っていればいいと言われていたからそうしていたけど、一条くんが私のことを自分の彼女だと言ってから私が妊娠していることを言い終わるかどうかという瞬間にゴッ、と鈍い音がした。 

 そのあまりに躊躇いのない様子と平手ではなく拳でしかも鼻を狙って殴ったのを見て、人をナイフや包丁で刺した場合、刃が上に向いているか下に向いているかで、罪の重さが変わる、と昔クラスの男子の誰かがふざけて言っていたことを思い出した。確か上を向いていた方が殺意は強かったことになったはずだ。

 ナイフが出てきたわけじゃいから、ナイフの例え話はおかしいかもしれないけど、あの殴り方はとてもシンプルに、たったの一撃で一条くんを痛めつけていた。とても強い攻撃。殺意さえもある攻撃。私はそう感じた。何度も叩いたりしないことや、感情的に怒鳴ったりしないことが、色んなことを省エネしているように思えて怖かった。もしかしたらこれが一条くんの日常なのではないかと疑いもしたのだ。

 一条くんのお母さんは無表情に一条くんを殴りつけたのに、まるで何もやっていないかのように優しい声色でこう言った。

「二村さん、本当にごめんなさい。私の育て方が悪かったとしか言えません。避妊もろくにせずに、よそのお嬢さんを妊娠させるなんて産婦人科医の子として本当にありえません。できたらご両親にも謝罪をしたいのだけど……」

「母さん、それが嫌で瞳は自殺しようとまでしたんだ」

 鼻血が止まらない一条くんを一条くんのお母さんはもう一度殴った。その時一条くんが何が起きるのかを分かっているのに、何も防ごうとしていないのを見て背筋に冷たいものが落ちていくような寒気を覚えた。

「よそのお嬢さんを呼び捨てにするなんて! おまえは本当に!」

「母さん、今は瞳さんをどうするか考えて欲しいんだ。俺のことはどうだって」

「分かっています。二村さん、本当にご両親とお話しなくてもいいの?」

「……はい」

 屋上で一条くんが提案してくれたのは、私のお腹の子を一条くんの子だということにして、中絶手術の段取りを一条くんのお母さんにしてもらうということだった。あまりにも簡単にそう言っていたから、私が想像しているより、そういうことがずっと簡単なおうちなのかなと思っていたら、こんな風に全然違っていた。一条くんのお母さんはうちのお母さんとは違った部分が、どこか変なんじゃないかなと思った。そして、私は現在進行形で一条くんにものすごく大きな借りを作っているという実感が一秒ごとに膨らんでいくような気がした。気が気じゃない時間がどれくらい続いたのかはもう覚えていない。

 私はそのあとすぐに一条レディースクリニック診察台にあがり、そしてすぐさま手術台に移されて中絶手術を受けた。一条くんのお母さんによるともうあと数日でやっかいな手術になるところだったということだ。胎児が掻き出される瞬間、私は自分の声とはとても思えない獣のような叫び声をあげて、それからわあわあ泣いた。こうしないと生きていけないと思ったはずなのに、なぜだろう? 今も分からないけれど、とても辛くて悲しい気持ちでいっぱいだった。


 私はこうして一条くんに逆らうことのできない人間になった。いつも見えない首輪とリードでつながれているようなかんじだった。一条くんは私に体の関係を強要した。強要とは言っても私は合意していたと思うから、この言葉が正しいかどうかは難しい。それに一条くんだったら、普通に彼女を作って、その子とセックスすればいいのにどうして自分を犠牲にしてまで私と関係を持ちたいのかがよく分からなかったから聞いてみた。

「彼女が欲しいわけじゃないんだ。俺は女の体が知りたい。手段としてね。二村さんは僕の実験動物だよ。それにこれから計画していることもあるし」

 セックスを〈手段〉だと言ったのにはぞっとしたけれど、一条くんとセックスするのは次第に苦ではなくなっていった。性的なことはそんなことできないと最初のうちは思っていても段々と慣れていくものなのだなとショウさんの時に身をもって知っていたし、一条くんの言っている手に入れたい手段は暴力的なものではなかった。正直に言うと、実験のように色々と確認してくれるだけ、ショウさんよりずっとましだった。

 そして、初めのうちは自分の尊厳を脅かしているはずの一条くんにどこか同情していたと思う。あのお母さんの暴力を目の前にしたからだ。私の命は彼が救ってくれたというのだという動かせない事実もあった。だから、私は脱げと言われたらどこでも脱いだし、写真を撮られることも拒まなかった。一条くんは私の頭の中にある理性と善悪の感覚を少しずつ麻痺させていったのだろうと、今なら思うけれど、その時はお母さんに中絶したことを言わないでくれたらなんでもするという気持ちでいっぱいだった。


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