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「断罪パラドックス」   第11話

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「もう、また庭に週刊誌が投げ込まれたわ。ねえ、瞳ちゃん、一条くんとはなんともなかったのよねえ? お付き合いなんかしてなかったって言うべきよ」

 マスコミだけじゃなくご近所のどなたかからの嫌がらせまではじまって、お母さんのノイローゼは悪化の一途をたどっていたけど、私は沈黙を保っていた。でも今のお母さんの発言でこの人は本当に私を守るつもりがないんだなと晴れ晴れした気持ちになった。

――こんな人のために死ななくて良かった。

 私はお母さんをちらっと見て溜息をついてから、読んでいた本に視線を戻した、ボーヴォワールの『第二の性』だ。学校に行けなくなってから読みはじめた。もっと早く読んでいたらよかったと思う。特に「女はどう育てられるか」を読んで私の悲しみと苦しみは怒りに変わり、さらに慰めに変わった。汚らわしい。嫌らしいのは私ではなくて、私にその役目を押し付ける方なのだ。そして、沢山引用されていた不感症な女たち。その姿はお母さんと重なる部分があった。私には知らないけれどきっと、お母さんにはお母さんの問題がある。でも、それをぶつける先が私になってしまうのは理不尽なことだと、今の私は言える。

 私の態度が悪いと思ったのだろう。お母さんは引き下がらず、詰め寄ってきた。

「ねえ、瞳ちゃん? なんとか言ったらどうなの? はっきり、毅然と否定
すればいいのよ」

「あのね、お母さん、私は一条くんとはお付き合いなんかしてないよ」

「そうでしょう? だったら……」

「でも百回くらいはセックスしたよ」

「は?」

 お母さんの手入れの行き届いた、つやつやした血色のいい頬から、一瞬で血の気が引くのが分かった。気持ちが良かった。お母さんの苦痛が気持ちいい。私はもうこのドールズハウスを壊していいと思う。自分が生きていくために。もう絶対に屋上から飛びおりようとは思わない。一条くんみたいに死ぬのはごめんだ。

「私と一条くんはセックスフレンドだったんだよ。それに、私中絶もしたことある」

 お母さんはリビングの床に膝を落とした。
 わなわなと小刻みに震えている。

「嘘でしょう? 瞳ちゃんはそんな子じゃない」

「嘘じゃないよ。そんな子じゃないって、私ってどんな子? お母さんいつも言うじゃない。汚らわしい嫌らしいって、私はお母さんの言うとおり、そんな子なんだよ」

「嘘よ! 瞳ちゃんは私の子どもなのにそんなはずないじゃない」

「いつも、自分で私に言ってることなのにどうしてそうなるの? それに私、もう知ってる。お父さんが、会社の派遣社員の若い女の人と浮気してることも、お母さんがそれを黙認していることも。桜山を受験した時、お父さんがくれたお守り。あれ、お父さんがその人と旅行に行った時に買ってきたものでしょう? 近所の人が教えてくれたよ。お父さんが不倫をしてること、この町内で知らない人はいないみたいだね。お父さんもどうかしてるけど、お母さんだってどうかしてるよ。お母さんはセックスを楽しめない人なんでしょう? だから私がマスターベーションをしてるのが気持ち悪くて仕方がないんだ。でも自分がセックスが嫌いだから、私のしていることが気になって仕方ない。ねえ、そうなんでしょ?」

「うるさい!」

 お母さんはリビングのテーブルに置いてあった大きくてずっしりとしたガラスの灰皿をつかんだ。確か両親が結婚した時にお祝いで知人からいただいたものだったはずだ。お母さんがいつもピカピカに磨いていたバカラの灰皿。それが私に向かって飛んできた。眉間に当たる。鈍い音が体に響くのと重たい痛みを感じるのはほぼ同時だったと思う。

――死ぬかもしれないな。

 あんなに死にたかったのが嘘みたいだ。今は生きたい。絶対に死にたくない。でも〈ドール〉じゃなくなった私はこのドールズハウスでは生きていけないのかもしれない。

 一条くんが死んでから私はようやく気づいたことが沢山あるけど、桜山の校舎の屋上が時々開いていたのは、一条くんが屋上の鍵を持っていたからじゃないかと思う。一条くんがあの時、私を助けたのは偶然だったかもしれないけれど、あの屋上で一条くんがしていたこと……。一条くんはもうずっと前からあそこから飛び降りて死ぬことを決めていたんじゃあないかと思う。

 もしも私が先を越していたら……。きっと学校は管理体制の落ち度を見直して、生徒が二度と屋上に入れないようにしたと思う。だから一条くんは私の自殺をとめたんじゃないだろうか?

 そう考えると一条くんが誰かに殺された。なんてことは絶対にないはずだ。自殺で間違いないと思う。

 でも、どうして学校で死にたかったんだろう? その疑問と、一条くんのお母さんの緊急全校集会での発言がなんだか引っかかるけれど……。

「瞳ちゃん、嘘でしょう。いやあああああ」

 自分でやったことなのにお母さんは泣きわめいている。私は自分の意識がどんどん遠ざかるのを止められない。

 生きたい。生きたい。生きたい。でも、お母さんの本当の人形になるくらいだったら、いっそ死んでしまえ。

 目の前が真っ暗になる寸前まで、私はいるかどうかも分からない神様に、お願いし続けた。


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