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「断罪パラドックス」   第12話

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第三章   三国慈愛杏登


 ガキのころ、テレビのCMに出てきた大きな一軒家を見た時、どんないいことをすればこんな家に住めるのだろうと思った。うちは古い市営住宅で、そのうち取り壊されて建て替えられるだろうと、言われていたけど、いつまでたっても取り壊されることはなかった。あんまりにもぼろだから住人は減っていく一方だった。住人が減っていくと治安はどうしても悪くなる。盗難とか車上荒しはしょっちゅうだった。おまけに、このあたりで誰でも簡単に入ることができる五階建ての建物だったから、ちょっとした自殺の名所にもなった。まあ、自殺者の三割くらいは、住民か元住民だったらしい。今でもドスンって、独特の重みのある、似たようなでかい音がすると、ぞっとして反射的に顔をしかめる。ああ、まただれか落ちたなってね。

 こんな環境で子どもを育てているってのが、それなりにワケありだってことにガキだった俺が気づくはずもなく、ただ隣の家よりはまあましかなって思ってた。

 うちの隣の家のおばさんはいつも子どもを怒鳴りつけていた。薄い壁からその怒鳴り声がうちまで響いていた。出かける支度ができてないと言って、子どもの靴を階段の踊り場から下に放り投げたり、泣いている子どもを置いて出かけたりするような鬼ババアだった。わざと子どもを泣かせている。そんなかんじ。女でも大人が腹の底から出した、あの怒鳴り声と閉じ込められた子どもたちが団地の古い金属の重たい扉をガンガン叩く音は今でも耳にこびりついている。牢獄の檻を叩いたらきっとあんな音がするだろう。

 でも、今となったらあいつらは俺たちよりましな生活をしていたのかもしれないと思う。鬼には分かりやすいのと、分かりにくいのがいるんだ。そして、その鬼は……。まあ、それは今はいいか。



 俺が自分の名前に違和感を覚えたのは小学校の入学式の時だった。うちのおんぼろ市営住宅とは違って、建て替えられたばかりの校舎はどこもぴかぴかしていて、毎日ここに来てもいいことにうきうきしていたんだ。

「三国慈愛杏登くん」

 教室で担任の先生に名前を呼ばれた俺は、元気いっぱいに返事をした。最初に呼ばれたわけじゃなかったから、後ろの方で母さん以外の保護者のクスクスと笑う声が聞こえるのがどうしてなのか分からず、首を傾げながら椅子に座った。それがいわゆる〈失笑〉なんだってことが分かるにはもう数年はかかった。その失笑に対して母さんは周りにいた人間を睨みつけて、怒鳴り散らした。

「人んちの子どもの名前で笑ってんじゃねーよ。ふざけんな、このカスどもが!」

 その時の俺の気持ちは母親が珍しく俺のことをかばってくれた嬉しさでいっぱいだった。 でも、母さんが俺のことをかばったんじゃないってことにも、そのうちに気づくことになる。

 誰だって笑ってしまうだろ、こんな名前。そんなDQNネームをつけたのは他ならない両親だ。母さんはあの失笑が俺に向けられたものではないことを知っていたからキレたんだ。

――大きくなるようにジャイアント。

 ホントにふざけた名前だと思う。

 母さんは高校生の時に俺の父親と出会って俺を産んだ。高校を中退して俺の父親が十八になったら結婚するはずだったらしいけど、ふたりであんなふざけた名前をつけたくせに、俺の父親は十八になる前に母さんの目の前からいなくなった。

 高校を中退した田舎のシングルマザーにできる仕事は限られる。昼間の仕事を探すのはあっさりとやめて、母さんは近所の寂れたスナックで働いていた。夕方になると俺はばあちゃんの家に預けられた。ばあちゃんもシングルマザーで母さんを育てたらしい。もう、先祖代々そうだったのかもしれないとさえ思う。俺が物心つく前の話は全部ばあちゃんから聞かされた話だから、どこまでが本当かは分からないけれど、母さんは必死に俺を育てようとはしていたらしい。でも、すぐによくない男にひっかかった。

「甘い言葉とか、約束とかにすぐ踊らされちゃうんだね。私の若いころと一緒だ。でもばあちゃんも悪いんだ。ごめんなあ。慈愛杏登」

 俺の世話をばあちゃんにほとんど丸投げしている母さんをかばうばあちゃんの気持ちはその時よく分からなかった。

 スナックの既婚者の常連客と付き合って、母さんは妊娠した。この時も母さんは俺の時とまったく同じ過ちを犯した。すっかりお腹が大きくなる前に男は姿を消した。俺の父親と同じことをしたってわけ。連絡先なんて拒否されたらそれで終了な関係でしかなかったことに母さんは樹里杏を産む時まで気づいていなかった。その時の俺はまだ二歳で、ばあちゃんには一番手のかかるふたり分の育児がのしかかることになった。

 母さんは樹里杏を産んでからも、色んな男と付き合った。男と別れるたびに母さんはすさんでいったんだと思う。男が変わるたび、あるいは俺たちが成長するにつれて、母さんの付き合う男のタチがどんどん悪くなっていった。

 酒浸りで、朝からぷんぷんアルコールの臭いを漂わせて、六畳間のカビが生えそうな湿った布団で、ぐちゃぐちゃになった化粧のままでいびきをかいている女。それが俺たちの母さんだった。物心ついた時にはそんなかんじだった。

 それでも、まだこの時は良かったかもしれない。

 少なくともこの時の母さんは働いていた。それにばあちゃんが俺たちの面倒をみてくれていたから俺たちの日常は平和だった。歯車が狂いはじめたのが、どこからなのか厳密に言うとすれば、もう俺が産まれる前から間違っていたのかもしれないけれど、でもまあ、大きく狂ったのは、ばあちゃんが死んでからだ。

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