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ナレーションという違和感を、わざわざ映画に持ち込んだ理由(映画「リトル・チルドレン」)

トッド・フィールドの新作「TAR/ター」が好評だ。

金曜日から長野県富士見町に行っていたので、今週末は鑑賞できなかったが、来週早々には観に行ければと思っている。

トッド・フィールドは、2001年の「イン・ザ・ベッドルーム」から22年間で3つしか作品を手掛けていない。これほど寡作な作家は、現在の映画界では非常に珍しい。(新作を出し続けていないと、並の映画監督はシネフィルにも批評家にも忘れられてしまうから)

トッド・フィールドが優れた映画監督であることは言うまでもないが、2作目の「リトル・チルドレン」を見れば一目瞭然だろう。パートナーがいる女と男による、ひと夏の情事。セックスレスの夫婦がひょんなことから出会い、「別の人生」の可能性を考える物語だ。主演のケイト・ウィンスレットとパトリック・ウィルソンは、上映当時の年齢は30代後半で。奇しくも、今の僕と同じくらいの年齢だ。めちゃくちゃ共感するわけではないが、実感として、「ああ、僕にもひとつ間違いがあれば、彼らのような『別の人生』を模索しようとする可能性はあるだろうな」とすんなり思えるものだった。不倫の善悪とは異なる、いわゆる抗えない運命のようなものの存在を、僕がこの歳になって認められるようになったからかもしれない。

しかし、ただの男女の情事を描くだけなら、この手の物語はゴマンとある。

トッド・フィールドは、「映画」というフォーマットが持つ意味を知り尽くした作家である。「リトル・チルドレン」のひとつの役割は俯瞰性であり、そのひとつの装置としてナレーションがある。主人公の心情を、第三者のナレーションが語ろうとすることで、状況説明を「正しく」伝えていくのだ。本人たちが自己認識する心境というのは、多くの場合、間違いがある。人間は、自分のことを正しく理解しているわけではないから、本人の吐露とはいえ(吐露だからこそ?)、そのときの状況とズレが生じてしまうものだ。(それを理解していない監督も多いのだけれど)

だけど、ナレーションが語る状況説明は、間違いであろうはずがない。つまりトッド・フィールドは、ナレーションが語る文章を通じて観客に「誤読」させることを防ごうとしたのだ。

東浩紀は、たびたび誤読の意義について語ってきた。誰しも無意識とはいえ、情報の受け手の解釈をおおむね許容してきたと思う。(政治家は別だ)

トッド・フィールドも、作品の解釈が自由になされることを好む映画監督である。しかし、「リトル・チルドレン」でみられるのは、「ここだけは誤読してくれるな」という強い意思だ。もっというと、一部で誤読防止を試みることによって、長期的には、爆発的に誤読が生じることを意図したのではないだろうか。マクロに、時にはミクロに、男女の心情に寄ったり引いたりしながら、様々な可能性を「予想」させていく。

男女の情事をロマンティックに描く節があるけれど、ここでは罪の意識や、恥の意識が見え隠れするような、ネガティブさがひしめいているように感じる。

ちなみに、観た後で「あれは錯覚だったな」と感じたのは、序盤のナレーションだ。「ケイト・ウィンスレットを美しくない」と表現したのは、ふむふむと思ったけれど、まさかそんなわけないじゃないか。これもまた、トッド・フィールドの軽やかな魔法なのだろうか。

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