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九州のとある神社でそれはそれは低い低い鳥居に出会ったのである。立ったままではとてもとてもくぐれない。屈みこんで跪いてようやくという低さなのである。
同じ九州には「火山灰で鳥居が埋もれて低い」というケースがあるが、それともまた違う。最初から意図的にこのように低く低く拵えられたのだ。


一体何故?
答えは風の中。解らない。
ご近所を歩いている住人に聞いてみたが、解らないという。
この地域は滋賀県のあたりから豊臣秀吉が名護屋城の石垣を築くために連れてきた穴太衆がそのまま定住した地域だという。
そこに思いを巡らせてみる。
熊本城で知られる急峻で美しい石垣を築くような人達。
「身軽」という言葉が浮かぶ。
そして小柄だったのではないか。
小柄で身軽なひとたちは一般的なサイズの鳥居を必要とせず、このような小さな鳥居でよかったのではないか。

そんな空想をしながら穴太衆になったつもりで鳥居をくぐろうとしたわたしだ。

するとどうだ。

身体が自然とかがんでいく。

だが膝を曲げ腰を曲げる姿勢。

この姿勢は腰に負担がかかるでは無いか。

すると体は自然と丸くなつていく。

つまり蹲るようにしてみる。

うずくまる。

あとでを調べると。
身体を丸くしてしゃがむ。
丸くなってしゃがんで礼をする。
という意味だ。

鳥居に対して蹲り、相撲の土俵入り蹲踞のように構えることが自然に感じられたのだ。
蹲踞をしたわたしは周囲の眼がないことを確認し、しばらくそのままの姿勢で、横綱の太刀持ちのようにどっしりと構えてみた。
するとなにかこうお社の後ろの山からひんやりとした霊気が下りてきて、わたしを包んだ様に感じられた。
そこからさらに姿勢は低くなり、頭が上がらない。
這いつくばって蛇のようににょろにょろと蛇行をしながら鳥居をくぐっていたのだった。

わたしにはこれが身体性からの答えのように感じられた。

目に見えないものへの態度。礼。
を改めて教えていただきありがたい気持ちになったわたしだ。

何年か前椿大神社に坐禅の師とともに旧正月にお詣りをした。
大祓が上がると、わたしと師は神前でかしらが上げられなくなり、地べたにひれ伏し、さらに這いつくばってただただにょろにょろとしていたあの時の感覚を思い出した。

命とか魂というものにカタチがあるとしたらこういうにょろにょろとした光なのじゃないかと思ったりした。

それを平伏して目に見えないものにただただ投げ出す。

誰もいないことを確認して、にょろにょろと鳥居をくぐったわたしは、さらににょろにょろと階段を上がり、拝殿に辿り着いた。

そこは白山さん菊理姫を祀る場であった。

誰もいないはずの神社でだれかがこちらをじいっと見ているように感じられた。
じいっと見ているなにかはこの方だったようだ。

「このようにお詣りしていたのだよ」

そんなお手本を示して下さっているような気もした。
今後誰かが見ていれば別だが、誰も見ていなかったら躊躇なく、このようにお詣りしようと決めたわたしだ。

南無白山大権現菊理媛神


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