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可能性の種とかいうもの

2回目の新卒就活の頃の話。
2月だったと思う。修論の審査も終わり、研究室かバイト先の事務室でゆるやかな時間を過ごしていた。

すでに内定をもらっていたが、何か魅力を感じて、とある専門誌の編集部の求人に応募した。

求めるスキルは英語、Dreamweaverを使ったホームページの編集、電話対応。
どれも最低限はできるかなと、軽い気持ちで書類を送付したら、面接に呼ばれた。

訪ねたのは都内の雑居ビル2階。
ドアを開けて視界に入ったのは資料の山。
机の上、ワープロと思しき機械の上、床にも積まれている。
日本語、英語、キリル文字、フランス語と様々で、日付も様々だ。

そして目立つのが、至る所に置かれた大きなガラス製の灰皿。そのどれにも吸い殻が残っている。
消防や分煙の意識はまるで感じない。

ひどいというより、ただすごい場所。第一印象はこれだけだ。

応対してくれた社員は若かった。自分と同じか少し上といったところ。
煙草の臭いがフロア中に広がるが、彼からは漂ってくる気配はなかった。
感じの良さが事務所の異様さのなかで浮いていた。
それに、彼以外人影はない。
照明は最低限しかついておらず、奥の様子は窺えなかった。

不安しかない。
名の知れた、「ちゃんとした」あの雑誌の編集部とはとても思えない。

5分ほど待ち、自分の衣服に煙草の臭いがつきはじめた頃、先の社員に呼ばれた。

いつの間にか奥の一角の照明がついている。
ロッキングチェアに人影が見えた。

促され椅子の方へ進むと、壮年の男性がこちらを一瞥する。
呼んだのはあちらなのに、歓迎する様子はまるでない。
椅子もすすめられず、立ったままだ。
それはいいとして、ここで何を聞かれるのか見当もつかなず、そもそもここがどういう事務所なのか怪しくなってきた。

壮年の男性は事務所の所長で、名前を名乗るとともに、某専門誌の編集長であるとした。
編集長といっても彼以外の編集者は、あの若い社員だけに思えた。

所長からは簡単な説明ののち、次のようなことを訊かれた。
大学院での研究内容、英文の学術文献への抵抗の有無、英語での電話対応の可否など。
英語や知識の試験があるわけでもなく、大手ならありそうな電話対応のロールプレイなども当然ない。
ただ、試験と言っていいかわからないが、ホームページ編集の操作が可能か試された。

面接の最後に、先の若手が間もなく辞めるため、代わりのスタッフを補充するための求人だと伝えられた。

所長や事務所の怪しさ、それと裏腹に実績と歴史のある刊行物とその内容などは興味があった。
それにアカデミアに近い場所で働くことへの憧れが捨てきれずにいたが、その一言で、急速に意欲が萎んでしまった。

この煙草臭くて暗い、火事で一発で終わりそうな空間で、おっさんと2人、というのは、どう肯定的に捉えても先行きの明るさを示してはくれなかった。

合否で言うと合格、つまり採用通知を貰ったわけだが、私はそれを辞退した。

そしてすでに内定をもらっていた某社への入社を決意し、その決意とともに抱いた失意を抱えて、クロアチア縦断のひとり卒業旅行へと向かった。

いまでも時折、あの暗く、紫煙漂う事務所と、所長の睨む顔を思い出す。
あのとき、違う選択をすれば私は、アカデミックな世界に居続けることになっただろう。
そして喫煙者になったかもしれないし、所長が実はとんでもない厄介者で、ものの数週間で辞めていたかもしれない。

それもまたひとつの可能性だ。
いまでもアカデミックな世界、あるいはそれに接した世界に居続けたかった自分はいる。
ほかにも決定的な分岐点はいくつもあったが、結果としていまの道にいる。

最近、そうした選択をめぐる後悔は少なくなってきた。

そのかわり、今後もこうした大きな選択肢が来るのだろうかという不安が増えてきた。
歳を重ねるとともに、自身の保守的な面が大きくなると言われるし、また転機そのものの数も減ってくるのではないかという懸念だ。

願わくば、可能性の種がまだこの道にいくつも転がっていることを期待したい。

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