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笑いは文化である〜「米粒写経例大祭」

米粒写経という漫才ユニットは、どの程度の知名度なのだろうか。年に1度の単独ライブ、「米粒写経例大祭」が、11月6日・7日深川江戸資料館で開催された。

この会場で開催されるのは2年ぶりのようだが、私は前回観に行って、大爆笑・大満足した。今回も行こうと思ったが、油断している間にチケットは完売。若干枚の当日券を求めて、なんとか入場した。

米粒写経、居島一平(おりしま)とサンキュー・タツオのユニットである。二人は、落語という共通項(共に早稲田大学の落語研究会)を持ちながら、居島は本・歴史・映画・プロレスなど、タツオは文学部の博士課程を修了し、辞書をこよなく愛する上に、「広辞苑」編纂にも参画。「渋谷らくご」のキュレーターとしても活動している。簡単に表現すると、膨大な知識を持った二人による漫才である。

笑いは文化である。外国語による表現活動の中で、最も理解するのが難しいのがスタンドアップ・コメディ、日本的に言うと漫談である。漫才もその派生形と言ってよいだろう。その文化的背景は、ローカル色が強いものが多く、理解することが難しい。

例えば、ミルクボーイの漫才を外国人が見たらどうか。オカンが思い出せないモノを知らない人には、なんのことだか分からない。こうした観点から、米粒写経の漫才は、若干ハードルの高いものである。

逆に、彼らの世界をある程度理解し愛する人間にとっては、他に類を見ないお笑いであり、共有する“文化“の上で笑うことの心地良さを感じる。私がそれに当てはまる。

米粒写経の漫才に流れるのは、先人たちが築いてきた文化へのリスペクトである。それは、落語といった演芸であったり、「砂の器」横溝映画、歴史や書籍といった世界である。今回のネタにはならなかったが、国語辞典もその対象になる。

こうした題材をベースに、自由に表現を繰り出す”天才”居島一平を、”秀才”サンキュー・タツオがさばいていく。私は爆笑の連続だった。

この日の最後は、この季節に合わせて忠臣蔵ー赤穂義士ネタ。「赤垣源蔵 徳利の別れ」、「両国橋の別れ」。どちらも講談の演目として有名なエピソードで、後者は、四十七士の一人、大高源吾にまつわるもの。大高は俳人でもあるが、討ち入り直前、両国橋で俳句の宗匠、宝井其角に出くわす。其角は、”年の瀬や水の流れと人の世は”と詠み、付句を促す。これに対し、大高源吾は討ち入りを念頭に”明日待たるるその宝船”と付ける。

こうした名場面を紹介しながら、”鶯の 身をさかさまに 初音かな”など「獄門島」で使われる句へと入り、お約束の横溝正史、「砂の器」へと展開させて大団円となった



彼らの面白さを理解するには、M-1に代表されるテレビ用の短い時間では難しいでしょう。 したがって露出度は少ないが、”文化”を分かる人にはきっと刺さるはず。寄席への出演に加えて、YouTube、この後は京都・舞鶴での講演(共演:マキタスポーツ)と活動している。ご興味を持った方は、どこかで観て頂ければと思います。


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