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「いつも笑顔で」という呪縛にこころをなくしてしまわないで。

近所の建築現場の看板

私の家の近くに、大きな建築現場がある。

そこでは、比較的貧乏で比較的進学の機会に恵まれなかった低学歴の若者たちが、重いものを運んだり重機を使ったり炎天下や極寒の日も壁を塗装したりと、なかなか厳しい籠城条件で働いている。そして私達はそれを冷房や暖房の効いた部屋から「たいへんそうだなあ」と見ているだけだ。

ここでの「低学歴」とは、高卒や中卒や専門学校卒といった学位の話であって、「○○高校/大学のレベルが低い」という話ではない。彼らが低学歴になったのは、社会や環境や金銭的な問題のせいであって、彼らの意志ではないことが多い。それなのに、低学歴だからという理由で、彼らは低賃金で働くことを強いられている。

その建築現場には、「今日も笑顔で!」と大きな文字で書いてある。

作り笑顔をしたところで、得するのは誰か?

よく考えてみてほしい。彼らが作り笑顔をつくったところで、得するのは誰だろうか? 誰もいない、というのが私の意見だ。

私達一般市民は、その現場の前を通りかかることはあっても、彼らの表情など見ていない。彼らと話すことすらない。彼らの生活は、彼らの社宅と簡易トイレと屋外の作業現場と会社の食堂で完結している。

強制されていることは、「ほんとうのこと」ではない

上司が「ああ、部下たちが笑ってるな、私も幸せだなあ」と思っているなら、その上司のほうに問題がある。なぜなら、それはあるコンテクストにおいて強制されていることであって、強制にはなんの意味もないからだ。他人の感情を統制しているということは、極端に言えば、他人の口をふさいで言論統制している社会を見て、「このひとたちは私達の政策をよく思っている、素晴らしい」とプロパガンダに染まった市民が思うようなものである。

仮にあなたが北朝鮮を旅行したとしよう。北朝鮮は観光客を受け入れているから、観光はできる。しようと思えば、誰でも観光はできる。その「ツアー」は24時間の監視付き、つまりガイドさん(日本語が話せる北朝鮮のひと、もちろん彼ら彼女らも言論統制の犠牲者である)が常にすべてを見ている。

その状態で仮にあなたが一般の北朝鮮市民に対して「あなたは北朝鮮が好きですか? 北朝鮮で暮らせて幸せですか?」と聞くことができたなら、100%のひとが「好きです、幸せです」と言うことだろう。ということは、北朝鮮は北朝鮮のひとたちに愛され、彼らは幸せだとほんとうに思っているのだろうか? そういうことだ。そこに強制力が一定の意味で伴うのなら、その発言や態度は誠実なものとは言えない。

作り笑顔をつくるという選択は、ほんとうに「自分で」したものだろうか?

「いいえ、私は自分で作り笑顔をつくることを選んだんです」と誰かが言うかもしれない。ただ、それはいくつかの理由から否定できる可能性がある。ひとつは、社会がそれを要求していることを無意識のうちに自分にも吸い取っているということ。あるいは、状況的に作り笑顔を消して、思いっきり感情を表明したら、不利益がある場面に置かれていること。あるいは、そもそもそれがほんとうに「自分の」した選択なのかということだ。

私はカトリックだが、幼児洗礼以外の秘跡(秘跡とは、簡単に言うと儀式のようなもの)にはかならず自由意志であるということが必要になる。「洗礼しろと言われたから(成人)洗礼しました」などといった事態があれば、その洗礼は無効になる。

それと同じことが、笑顔にもいえる。作り笑顔を作ったところで、それが本人の益になると思って本人がその「作り笑顔するのは楽ではないが、そのほうが利益があるから」と思っているなら、まだいい。問題は、作り笑顔をなんらかのコンテクストにおいて強制されている場合だ。それは洗礼と同じで、無効になるべきだと思う。

自己欺瞞がもたらす破滅

まず、彼らは過酷な肉体労働をしているのであって、彼らがもちろん笑いたいなら笑えば良いのだが、少なくとも重い荷物を持っているときに「私は幸せだから、私は笑います」なんて思っているはずがないだろう。もしそう思っているとしたら、それは自己欺瞞である可能性が高い。

また、「笑えと言われたから笑います」というのは、感情の押し付けでしかない。無理やり言わせたことばに感情がないのと同じだ。その笑顔はどこか怖いのだ。

そして、その「怖い作り笑顔」には、多大な犠牲が伴っていることを意味する。彼らはほんとうに笑いたいときに笑えなくなり、ほんとうに泣きたいときに泣けなくなる。自分の感情がわからなくなるのだ。私は悲しいのか嬉しいのかわからない、といったことが誰にでもあるだろうが、それは自分のこころに正面から正直に向き合わなかった結果だ。それを強いたのは社会であるはずなのに、社会は責任を取ってはくれない。そうすると、私は幸せなのだろかとか、そういったことに悩むこともあるだろう。自分の感情がわからないというのは、作り笑顔という手段で、自分に嘘をつき続けたからだ。

人前で泣いたっていい

泣くのは悪いことだろうか? そんなことはない。

涙活(るいかつ)という言葉があるらしいが、涙を流すことは感情のデトックスに役立つ。

私は、人前で誰かに泣かれても動揺したりしない。それはそのひとがそのひとというものに向き合っていることの証左だからだ。素直なひとなんだなあと思うだけだ。

大勢の前で泣くことは、弱さを見せることだと思うのならば、その殻を破ってみるひとが増えたら良いと思う。しんどくても我慢しなきゃいけないなんて社会は病んでいる。

泣きたきゃ泣いていい、しんどいなら休んだっていい、学校や職場に行くことだけが答えじゃない、逃げたっていい…。そんなことを言えるような社会になってきたからこそ、自分の感情に素直になろうと言いたい。

感情に向き合えなくなると、感情がなくなる

むしろ、人前で泣くひとではなく、人前で泣いたらいけないよと言ってしまう社会のほうに、問題があると私は思う。

人前で泣けなくなるということは、極端な話、虐待されても声を上げるなと言っているようなものだ。

虐待の後遺症はいろいろあるが、そのひとつに「悲しくても悲しいと思えない、泣けない」というものがある。

親は彼を叩く。泣いたらもっと叩く。だから気丈に振る舞うことを覚え、多少痛くても苦しくても彼は泣かなくなる。そうすると、ほんとうにしんどいときに泣けないどころか、悲しいという感情すら湧きあがらなくなるのだ。そして、無になる。うれしいも悲しいもなくなった人生は、砂漠だ。

作り笑顔を強制するのは、未熟者の証

作り笑顔を強制する理由は簡単だ。

「あなたが悲しそうだと、私だって悲しくなるの」と彼らは言う。

ただ、よく考えてみてほしい。目の前のひとが悲しそうだとして、それにあなたが引きずられるということは、人間が人情を持っている証拠でもあるが、あなたの感情や自立心が弱いということでもある。

「黄色が最近はやっているから、黄色の服を買おう」と言っているようなもので、そこには強固な自我がない。

悲しそうなひとを見かけたら

もちろん、悲しそうなひとをみて悲しいと思うことは自然なことだし、「なにも感じるな」と言うほうが酷なことだ。自分もまた悲しがること、それを否定するつもりはない。

ただ、それは裏を返すと、「私の気分を安定させるために、あなたには笑ってもらわないと」ということでもある。それはつまり、他人を自分の気分の安定のために利用しているということだ。

大事なのは、悲しそうなひとをあなたなりの方法で慰めることであって、たとえば飲みに誘うとか、話を聞くとか、贈り物をするとか、あたたかい言葉をかけるとか、そういった方法をとればいい。相手を無理やり笑わせてコントロールする以外にも道はある。

「私が悲しくなるから、そんな顔しないで」と言ってしまうのは、暴力だ。

自分の安定のために他人を不安定にさせていい権利なんかない。

自分の感情を自分で守り、たいせつにしたい。素直に生きたい。誠実でありたい。だから、私は、他人に感情を強制したりしない。


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