本ノ猪
読書から日常を変える。
本から日常を変える。
場所をとるから、という理由で電子書籍への移行がすすんでいる昨今、「全集本」ほどその流れに反する存在はない。 私はある時期まで、「全集本を買うなら、完品に限る」という信念に囚われていた。つまりどういうことかというと、古本屋や古本まつりで全集本の端本を見かけても、買わない。全部で20巻ある全集なら、20巻一気に購入する、これがマスト……そんな風に考えていた。 そうではなくなった今となっては、これは「囚われていた」とネガティブに表現すべきことではなかったかなと思う。我が家の
今年も「春の古書大即売会」のシーズンがやってきた。京都市勧業館(みやこめっせ)にて、五日間にわたって開催されるこのイベントに、私は欠かさず参加している。 初めて足を運んだときの感動は、未だに忘れられない。バラバラの地域に点在する古書店が一堂に介して、ある空間を「古本」で満たしてしまう。そのスケールに、ただただ圧倒された。 * 初めて足を運ぶ友人・知人を案内するとき、たびたび質問されることがある。 「それだけ毎年参加してたら、さすがにもう飽きたんじゃない?」と。
深夜一時。ベッドから天井を見つめていると、集合住宅の他の部屋の住人は、この時間何をしているのだろう、と想像を巡らすことがある。 この想像がしやすかったのは、私が京都一年目に住んだ、安アパート。そこの住人は、当時の私と同じ学部生ばかりで、醸し出すオーラも似ていた。ある日、友人がうちに遊びに来たとき、誤って別の部屋の住人に声を掛けてしまったぐらいである。 今住んでいる集合住宅では、さすがにそんなことは起こらない。単身者もいれば、カップル、三人家族も住んでいる。労働形態も一
気分転換も兼ねて、家の大掃除をしていたら、昔使っていたショルダーバッグが発掘された。 元は黒一色だったが、所々が擦り切れて灰色になり、濃淡が生まれている。バッグの中身を確認すると、藍色の袋が入っていた。 袋に包まれていたのは、一冊の本。『池井昌樹詩集』(角川春樹事務所)。一度再読したくて、本棚周辺を捜索したが見つからず、泣く泣く「行方不明」認定した本だった。 * 発掘されたバッグは、短期労働の現場に向かうときに、よく使用していた。つまり、その中に入れる本というのは
当時は「一生忘れないだろう」と思っているようなことでも、人間は簡単に忘れてしまう。 昔あったことを振り返り、つらつらとnoteにまとめたりしていると、その現実を痛感する。だから最近は、友人とした何げないやりとりのレベルであっても、「これは面白い」と感じたならば、積極的にメモアプリに記録するようにしている。まあ、軽く日記をつけているようなものだ。 * 優れたエッセイや随筆は、たとえ語られている内容が数十年前の出来事であっても、今まさに目の前で起こっていることをスケッチ
本の中で「読書感想文」が語られるとき、十中八九叩かれている。 軽く冷笑されるか、論理的に詰められるか、とにかくものすごい嫌われようだ。 私自身「読書感想文」が嫌いであったから、庇いたくても庇いきれない。むしろ批判者側に同調して、溜飲を下げてしまっている。 * 「読書感想文」を批判する人の多くは、感想文に対する苦手意識を持っていた。ということは、仮に得意だった人から意見を聞けば、レアな積極的評価に接することができるかもしれない。 そこで紹介したいのが、作家・辻村深
去年は行けなかったから、今年は花見行こう。 そういう旨のメッセージが、友人から届く。花見の最盛期も過ぎて、そろそろ人も疎らになっているだろうと予想して、よし行こう、とメッセージを返した。 * 花見当日。友人宅から一番近いスーパーが待ち合わせ場所である。五、六分前に到着して待っていると、前方にニヤニヤしながら近づいてくる友人の姿が見えた。 「〇〇に会うと安心する。何も変わってなくて」 「よく会ってるからでしょ」 「そうかな」 「そうでしょ。数年会わないようにすれば、
その日は、何かと諦めることの多い一日だった。 その諦めは、食べ物の購入に集中していて、普段は利用しない食料品店に足を運んだことによって生じた。 あんこのバター。ナッツの蜂蜜漬け。牛タンカレーのレトルト……。目に入るものが尽く魅力的に映る。買おうと思えば買える金額ではあったが、贅沢であることにかわりはない。結局買うのを諦めて、店を後にした。 帰り道、頭の中で欲しかった食品が、現れては去り現れては去りを繰り返し、私を苦しめる。何の迷いもなく全ての食品が手に入ったら、どれだ
「何かを始めるのに、遅すぎるということはない」という言葉がある。何歳になっても、新しいことにチャレンジしたい。そんな思いをアシストする、大変前向きな考え方だ。私の周りにも、この考え方を体現しているような人が幾人かいる。 一方、この考え方をもってしても、若いうちに新しいことに挑戦する、その価値・メリットを無化できるわけではない。挑戦するのなら若いに越したことはない、という場面は無数にある。 * 若いうちに何かに挑戦する。この機会を持つ上でのハードルは、まずその“何か”
本を読み続けることの利点は、定期的に「死」について考える機会を持てることだ。 「死」を考えることは、お世辞にも快適な行為だとは言えないが、自分の生活を見つめ直す上で、これほど便利な事象もない。 * 最近手に取った本に、次のような記述があった。 自分もいずれ死ぬのだ、という現実を、もっとも痛感させられるのは「他者の死」である。年齢を重ねることについても同様で、記憶の中ではまだまだ幼かった子どもが、再会時に体格の良い青年に成長しているのを目にして、「歳も取るはずだわ
小学校の同級生に、みんなから「雑学王」と呼ばれている友人がいた。 今の感覚だとダサい感じがするが、少なくとも当時の私は、彼を羨望の眼差しで見ていた。 「雑学」が意味していたのは何だろう。学校の教科書に載っていないこと、という説明が一番しっくりくるかもしれない。教科書の内容を頭に入れることさえ億劫だった人間にとって、教科書外のことを豊富に知っているというのは、それだけで尊敬に値した。 * ある時、雑学王の住んでいるマンションに遊びに行ったことがある。 彼の部屋に案
どこで読み終わったか、はっきり覚えている本というものがある。 「終わったぁ」と本を閉じ、顔を上げると、読む以前とは周囲が異なって見える気がして。本が持つ力を再確認する。 * 新大阪から京都へ向かう電車の中で、読み終えた本がある。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』だ。 残りのページ量から逆算して、新快速ではなく普通電車に乗り込む。新快速ほど車内は混んでおらず、ゆったりと席に座って、読書に没頭することができた。 読み終えたのは、次の到
今回は「翻訳者」について語りたい。まずは、よく話すエピソードから。 数年前、当時よくつるんでいた友人が、「あっそういえば、最近シェイクスピアにハマってる」と話してくれたことがある。 その段階で、大方の有名作は読んでおり、一番良かったのは……と楽しそうに教えてくれた。私はそれを面白く聞いていたのだが、何の意図もなく「誰の翻訳で読んだの?」と質問してしまった。 してしまった、と書いたのは、その後数秒間、沈黙が流れたからだ。「ごめん、あんまそこ気にしてなかった」と困惑する
一人前、という言葉がある。 私の周りではほとんど耳にすることがない。そういう言葉を使いそうな人を、本能的に遠ざけてきたのかもしれない。 私にとっての「一人前」は、振りかざされる言葉である。経済的に自立できている、というぼんやりとした意味の裏に、それができていて当然だ、できなければならない、という通念の押しつけが感じられる。 私も10代の頃までは、その通念を共有していたが、今は違う。人は独立独歩に生きられる、という前提自体に違和感を覚えている。 * 私が「一人前」
当人にとっては習慣化されていて気にもかけないことでも、側から見ると特異にうつるということはある。 私には大学の学部時代、毎日一本、酸っぱい飲み物を口にしなければ”落ちつかない“という友人がいた。味を楽しみたいというのではなく、飲まないと不安になるのである。 講義で一緒になるときにはいつでも、彼の机上には、レモン系飲料の小瓶が置かれていた。ある時、何とはなしに、「いつもそれ飲んでるけど、美味いん?」と質問したところ、「うーん、そうでも」という反応があって、ん???、とハ
フードコートでプレーンオムライスを食べていたら、どこかから視線を感じて、手が止まる。 感じる方向に目をやると、ベビーカーに乗った幼子がこちらを見ている。 目が合ったので、ぎこちなく笑いかけると、幼子も微笑を返してくれた。素晴らしい笑みに満足して、また食事に戻ろうとすると、幼子のいる方向から何かが飛んできた。摘み上げると、丸っこいカステラである。どうやら幼子が投げてきたらしい。 あのーこれ飛んできたんですけど……と幼子の隣にいたお母さんに話しかけると、「あっ、ごめんなさ