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球場に響くホームランの音|文=北阪昌人

音をテーマに、史実をベースとして歴史的、運命的な一瞬をひもといていく短編小説。第6回は、仕事でミスして落ち込む「僕」に、「社長」が静かに語り出したプロ野球選手・衣笠祥雄さんのあの偉業……そこから生まれる希望を描いた「球場に響くホームランの音」です。(ひととき2021年9月号「あの日の音」より)

 秋の風が、ホームを吹き抜けていった。

 早朝の東京駅。ホットコーヒーを2つ持って、新幹線に乗り込む。今回の出張は社長と2人きりだ。僕は車中で話そうと思っていた。会社を辞めたいということを。

 大きな失敗をしてしまい、これから広島にある得意先に謝罪に行く。ウチは40人ほどの社員がいる教育図書を扱う出版社。会社創業時から支えてくれたスポンサーを怒らせてしまった。社長は、新幹線の僕の座席を、自分の隣に指定した。きっとこっぴどく叱責を受けるんだろうな……。覚悟していた。スーツの胸ポケットには昨晩徹夜で書いた退職願があった。

「神崎君は、入社、何年目?」

 社長に訊かれる。

「に、2年目、です」

 そこで社長はコーヒーを飲み、車窓を眺めた。「私の頭に、ときどき、鳴り響く音が、あるんだよ。木のバットが白球をとらえるホームランの音……。1987年6月13日。広島市民球場。この日、広島東洋カープの衣笠祥雄きぬがささちお選手が、2131試合連続出場を達成して、メジャーリーグのルー・ゲーリッグの記録を抜いたんだ。24歳の私は、レフトスタンドで試合を見ていた」

 社長は、当時を思いめぐらすかのようにゆっくり話した。

「会社を辞めようと思っていてねえ、そのとき。教育図書の直販営業で中国、四国地方を担当していたんだが、うまくいかなかった。特約店の親父さんたちには相手にされないし、何より自分がこの仕事をやっていていいのか、心から自信が持てなかった。ペコペコ頭を下げるだけの毎日に、嫌気がさしていたんだなあ」

 社長の言葉にドキッとした。胸ポケットの退職願が、急に熱を持ったように感じる。

「東京に戻ったら、退職願を出そう。そう思った。最後の記念にと、なんとかチケットをとって赤ヘル軍団の試合を見にいった。衣笠が好きだったんだ。17年間、1日も休まず、試合に出続けた男。どんなときもフルスイング。三振かホームランか。ヘルメットを飛ばし、ぶざまに体勢を崩しても、フルスイングをやめなかった。連続試合出場記録に、スタンドは沸いた。でも、私はどこかで取り残されているような寂しさの中にいた。ちっぽけな自分、情けない自分を感じてねえ」

 そこで社長は再びコーヒーをすすった。車窓から、青い空に浮かぶ秋の雲が見えた。

「いきなり、ものすごい音がしたんだよ。あれは何回だったかな、試合も後半に入り……。衣笠の打ったボールが、一直線にレフトスタンドの自分の方にやってきたんだ。ホームラン! なんだか、涙があふれてきた。私は思わず、泣いてしまった。なんだろう、あのときの涙は。おそらく、『ま、いろいろあるけど、とにかく試合には出なよ。そして毎回、フルスイングしてさ』そんなふうに衣笠が言ってくれているように思えたんだね」

 新幹線は、真っすぐ目的地を目指していた。僕は目を閉じて、ホームランの音に耳をすませてみた。何も聴こえなかったけれど、まだ試合に出続けてみようと、思った。

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

※この話はフィクションです。次回は2021年11月頃に掲載の予定です

出典:ひととき2021年9月号


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