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がむしゃらに演劇と向き合った(鴻上尚史)|わたしの20代|ひととき創刊20周年特別企画

旅の月刊誌「ひととき」の創刊20周年を記念した本企画わたしの20代。各界の第一線で活躍されている方に今日に至る人生の礎をかたち作った「20代」のことを伺いました。(ひととき2022年1月号より)

 20歳の僕は仮面浪人中でした。一浪して早稲田に入り、当時、注目されていた8ミリ映画をやろうとしたものの、しっくりこない。自分の居場所はここじゃないと東大受験を決意したのです。でも、中途半端に勉強しても合格できるはずはなく、早稲田に戻って、さあ何をしようかと思った。そうだ、演劇なら中学高校とやっていたから、今から始めても追いつけるかなと演劇研究会(劇研)に入りました。先に8ミリをやろうとしたのは、演劇は中高で極めたと思っていたから。そのころから、つけあがり体質なんだね(笑)。

 今は授業と両立が基本ですが、当時の劇研は、ほとんど徒弟制度で、両立どころじゃない。そんな中、「第三舞台(*1)」が劇研の中で公演できることになりました。実は僕は自分から行動を起こすタイプじゃなくて、仲間の俳優・大高洋夫おおたかひろおに「そろそろ腰をあげたら」と言われ、それじゃあと動き始めた感じです。集まったのは大高はじめ、男5人。旗揚げ公演は無料で、演目は「朝日のような夕日をつれて(*2)」でした。それ以降は、年2回の公演のため、「このギャグは面白くない!」とか言い合いながら、正月と盆以外は毎日稽古。迷いも何も感じる暇がない。俺たち、これだけ稽古してるんだから面白くなきゃおかしいと思ってました。

*1 1981年、早稲田大学演劇研究会の中で旗揚げされた鴻上氏主宰の劇団。軽妙な台詞やダンス、テンポのよい場面転換を取り入れファンを獲得、小劇場ブームの牽引役となった

*2 『ゴドーを待ちながら』(サミュエル・ベケット作)を下敷きにした第三舞台の代表作

 25歳のとき、「オールナイトニッポン」のパーソナリティーになりました。初回、本当に聴いてる人がいるのかと「来週、ハガキくれたらその名前を全部読む」と言ったら、ものすごい数が届いて、翌週は「みんな寝るな〜」と言いながら、名前を読み上げ続けました。大みそか、リスナーに呼びかけて具を集め、生放送中に鍋をしたり、「放送後、俺は日比谷公園でジェンカを踊る。みんな来るなよ」と言ったのに、200人も集まったり。無茶したなぁ(笑)。ラジオで言葉を鍛えられたのは、演劇にも役立っていますね。

 20代は、がむしゃらに演劇活動をしていた。30歳になって、やっと俺たちはこの道でやっていけると思いました。プロとかアマチュアとか関係なく、いい作品を創って「お客さんに対して責任をもつ」。その気持ちは、あのころと変わっていません。

談話構成=ペリー荻野

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早稲田大学大隈講堂裏の劇研アトリエ前で 写真=岡田初彦

鴻上尚史
作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学在学中に劇団「第三舞台」を結成。「朝日のような夕日をつれて’87」で紀伊國屋演劇賞、「天使は瞳を閉じて」でゴールデン・アロー賞、1994年「スナフキンの手紙」で第39回岸田國士戯曲賞を受賞。現在は小説家、テレビ番組の司会、脚本家としても幅広く活躍中。

出典:ひととき2022年1月号


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