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もしも新選組が“相対主義者”だったら……!? 『君たちはどの主義で生きるか ~バカバカしい例え話でめぐる世の中の主義・思想』より|さくら剛(作家)

わかりやすい攻略ルートが用意されていた時代と違い、令和を生きる私たちの人生はつねに“ハードモード”。そんな荒野のダンジョンにおいて、攻略本代わりに道を照らしてくれるかもしれないかすかな光……それが、哲学者・思想家たちの残した「主義・思想」だと、人気作家のさくらつよしさんは言います。ユーモアたっぷりに22の主義・思想をご紹介する話題の新刊君たちはどの主義で生きるか ~バカバカしい例え話でめぐる世の中の主義・思想(2023年12月26日発売、ウェッジ刊)より、「相対主義」の章を抜粋してお届けします! 

君たちはどの主義で生きるか
2023年12月26日発売(ウェッジ)

“相対主義”ってなんですか!?

唐突ですが、私は一時期、新選組にハマっていました。

なんと言っても「池田屋事件」がシビれます。京都の警備隊である新選組が、旅館・池田屋に乗り込んで、テロの謀議をしていた尊王攘夷派そんのうじょういはの志士たちを叩きのめした事件です。

新選組はなんと、たった4人で大勢の敵の中に斬り込んだのです。戦いの中で沖田総司おきたそうじは病のため吐血、藤堂平助とうどうへいすけは額を斬られて危機一髪となりましたが、ああもうダメだっ、やられる‼ と思ったその時、土方歳三ひじかたとしぞう率いる新選組別働隊が到着。長州や土佐の攘夷派志士たちを一網打尽にすることができたのです。

新選組のドラマや小説で池田屋のシーンが出て来るたび、毎回私は大興奮でした。うおぉ~行け新選組‼ テロリストどもをぶった斬れ‼ ああっ、沖田が血を吐いてる! がんばれ沖田! 負けるな沖田‼ もうすぐ土方さんが加勢に来るぞ‼ ファイト新選組!!!

……と、必死に新選組を応援したものです。

ところが。

その後、私は一転して、坂本龍馬にハマりました。

龍馬は尊王攘夷派の仲間なので、そちら側の視点では、新選組は憎い敵になります。

それから龍馬のドラマや小説で池田屋のシーンが出て来るたび、私は逆の大興奮です。ウオォ~行け尊王攘夷派志士‼ たった4人で殴り込みとはナメ腐りやがって新選組‼ 権力の犬どもなど革命戦士・攘夷派が返り討ちじゃっ!!! おっ、よっしゃ、沖田が血ぃ吐きやがったぞ‼ ざまあっっwww!!! 今やっ、その軟弱野郎を囲んで串刺しやっ!!! おいっ、藤堂平助の額斬った奴、まだ藤堂生きてるやないか‼ もっと顔面真っ二つになるくらい気合い入れて叩き割らんかいっ!!! 確実に殺さんかい藤堂のボケをっっ!!! 急げっ、もうすぐ土方のボンクラが仲間のチンピラを連れて加勢に来るぞ!!! 負けるな尊王攘夷派志士‼ ファイト尊王攘夷派志士‼

……と、我を忘れて志士たちを応援したものです。

で、その後また新選組のドラマを見ると、

このドグサレ尊王攘夷どもがっっ!!! 徳川様に弓引くカス侍どもは地獄の制裁を受けろやっ!!! ああっ沖田大丈夫か~~っ、がんばれ、俺がついてるぞ‼ 土方さんが来るまで踏ん張れ‼ 負けないでもう少し最後まで走り抜けて沖田~~っ‼ I was born to love you 沖田~~~っ!!! と……(以下略)

………………。

とまあ、そんな口の悪い日和見を繰り返しつつ、最終的には「新選組も攘夷派志士も、みんなちがって、みんないいよね」という、金子みすゞさんの境地に今の私は達しているのでした。

さて。

これが、相対主義です。

つまり、AとBの2つ(あるいはそれ以上)の意見がある時に、どちらかひとつだけを絶対的な善とするのではなく、「どちらにも正しさはある」と考える姿勢。「どちらが正しいのか?」ではなく、「正しさは立場によって異なる」、そして最後には「どっちもいいよね」「全部ありだよね」に到達するのが相対主義の考え方です。

世の中には様々な価値観があります。特に現代社会では、モラルも宗教も礼儀も生き方も趣味趣向も、無限の様式が存在すると言っていい。

そんな中で、「お釈迦様は認めるけどキリストは認めないよ」「異性愛は認めるけど同性愛は認めないよ」「きのこの山は認めるけどたけのこの里は認めないよ」「『鬼滅の刃』の禰豆子ねずこの身体再生能力覚醒は認めるけど鬼舞辻きぶつじ無惨むざん消滅後の竈門かまど炭治郎たんじろうの鬼化は認めないよ」などといちいち争っていたら、キリがありません。

みんなちがって、みんないい。私とあなたは違うけれど、どちらも同じくらいいいよね。とするのが相対主義です。

相対主義は、紀元前5世紀、今からおよそ2500年も前にこの世に生まれました。古代ギリシア・アテネで民主制が発展したことにより、政治家の弁論術として考案されたのが発端です。

古代ギリシアの哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉を残しています。

「尺度」は、定規とか物差しのこと。人間は万物の尺度というのは言い換えると「人はみな、自分なりの主観的な物差しで物や事を認識するのだ」ということです。主観的なので、人によってバラバラというのがポイント。その人がどのような尺度を設定するかによって、物事の受け止め方や評価はガラッと変わるんです。新選組の側に立つか龍馬の側に立つかで善悪の概念も180度変わってしまうように。

新選組以外にも、いろいろ具体例を考えてみましょう。

これはどうでしょう。「富士山」は、大きいでしょうか? それとも、小さいでしょうか?

……はい。そうです。正解は、「人それぞれ」です。

富士山が大きいか小さいかは、相対的=見る人によって変わる、のです。普通の日本人の感覚では大きいでしょうが、ネパールのシェルパや、国際宇宙ステーションから地球を見下ろしている若田光一さんにとっては、富士山なんて小さな存在でしょう。「大きい」のか「小さい」のか、どちらかが正しいわけではなく、「両方正しい」のです。

次、これはどうでしょう。「高校生」は、若いでしょうか? それとも、もう若くはないでしょうか?

そうです、この答えも「人それぞれ」になります。

大人からすれば、10代の高校生など若さの象徴にしか感じられないでしょう。しかし先日私が女子プロレス団体「スターダム」の試合を見ていたところ、現役女子中学生レスラーが、現役女子高生レスラーを「こぉのクソババア~~~ッ!!!」と罵りながら蹴り倒していました(本当です)。

私からしたらどっちも子供なのに、中学生から見れば高校生なんてもうババア扱いという。17歳でババアだったら、アラフィフの私はもう化石も通り越して化石燃料なのでは……と、私はリングに上がってもいないのに胸が痛くなったものです。そしてまた、女子高生をババアと認識しているならもっとババアを大事にしろよと、高齢者をマットに投げて顔面を踏みつけるとは何事だと、敬老精神のない中学生レスラーを説教したくなりましたが、ともかく人の若さだってまた、相対的なものなのです。

さらに次です。テストの点数などで絶対評価を受けがちな「自分は勉強ができるかできないか」の認識なんかも、尺度次第で変わったりするのです。

語学を例にしてみますが、「英語を勉強している日本人」って、自分で「僕、英語喋れますよ」とはまず言わないものです。日本人の英語学習者100人に「Do you speak English?(英語喋れる?)」と聞けば、98人は「I can’t speak English!(喋れません!)」と胸を張って自信満々に答えることでしょう。

私もそうです。かれこれDMM英会話を2年間続け、レッスンではたまにスラスラ喋ることもありますが、「英語喋れる?」と問われたら、答えは迷わず「I can’t speak English!」です。たとえあと40年DMM英会話を続けたとしても、87歳になった私は「I can’t speak English……」と遺言を語りながら死んでいくことでしょう。

なぜかというとまず、日本人は謙虚なんですよね。「自分はできる奴だぜ!」という態度を出すと顰蹙を買いかねない、謙遜を美徳とする文化に我々は生きているため、自分で「I do speak English!(俺は喋れるぜ!)」とはなかなか言えない。

その上でさらに、多くの日本人は「英語が喋れるかどうか」を判断する時に、海外の映画やドラマを尺度にしてしまうんです。あるいはアメリカ大統領の記者会見とか、BBCニュースとか。

そんな厳しい尺度を設定してしまうから、我々は「英語学習年数」と「『I can’t speak English』を言い続ける年数」が永遠に同じ、という悲しい事態を招いてしまっているのです。

しかし、それが外国の人だとまた違う尺度だったりするんです。

私は一時海外を貧乏放浪していたことがあるんですが、例えばインドなどでは、尋ねてもいないのに「アイ キャン スピーク ジャパニーズ!(俺は日本語が喋れるぜ!)」と得意気に主張して来るタクシーの運転手なんかがいたりします。そこで「えっすごいですね、じゃあなんか喋ってみてくださいよ」と求めてみると、運転手さんは唐突に「ナカター‼ テリヤキーー! ソンナノカンケーネー、オッパッピー‼」と大声で叫び、それで終わりだったりします。いやそれだけかよっ!!! と、さすがにこちらもツッコまさせられるという。

でも、私の尺度では彼は「日本語喋れない人」ですが、彼の尺度では彼は「日本語喋れる人」なんですよね。人間は万物の尺度なのだから、彼の尺度で測れば彼は日本語が喋れるんですよ。そこに正解も間違いもないんですよね。……………。まあ、いったい彼はなにを尺度に設定したのかはちょっと聞いてみたい気がしますが……。そのへんの牛を尺度にしたんですかね?

余談ですが、インドのお隣のパキスタンやイラン、バングラデシュなどの国では本当に「日本で働いていたことがあるので日本語ペラペラの人」によく出会いました。ただ、「日本で働いていたことがあるので本当に日本語ペラペラの人」は、「うわー日本語お上手ですね!」と褒めると、意外と「いえいえ、ワタシの日本語はまだまだデスよ」と謙遜したりするんですよ。

「日本語」と「日本人的な謙虚さ」みたいなものって、きっと分割不可能で、抱き合わせで習得されるのではないかと思います。だから日本語ペラペラのイラン人やパキスタン人は謙虚で、一方で日本語喋れないテリヤキ運転手とかは「俺は日本語が喋れるぜ~!」とおごり高ぶって言えてしまうのでしょう。まあ尺度は人それぞれだから言っても全然問題ないんですけどね……。

相対主義が生まれた当初、つまり古代ギリシア時代には、「自然の事象に相対主義を適用するのは難しい」と考えられていました。例えば「太陽が昇る時間や沈む時間は誰にとっても同じ=絶対的」のように。

ところが、アテネ市民の中では日の出や日没の時間が同じでも、他の大陸に住む人にとっては違います。実は地球は丸かったので、時差があるんですよね。アテネの人々が絶対的だと信じて疑わなかった太陽の昇る時間すら、実は相対的なものだったわけです。

さらに20世紀になると、アインシュタインが発表した相対性理論によって、「時間の流れ」ですら人によって異なる、相対的なものであったということが明らかになります。

一般相対性理論では、「重力が強いと時間が遅れる」ということがわかっています。地球の重力は地球の中心に近いほど強く、遠いほど弱いため、海辺に住んでいる人と山の上に住んでいる人では、重力の強い海辺に住んでいる人の方がわずかに時間の進みが遅れることになります。ということは、山に住んでいる人の方が歳を取るのが早いのです。もっとも、同じ地球上であれば重力の差などたかが知れているので、誤差の範囲ではありますが。参考までに、高度2万㎞の上空を飛ぶ人工衛星で、地上より早く進む時間は1日あたり100万分の38秒となります。

このように、古代には絶対不変だと思われていた「時間」すら、実は相対的な存在だったということが今ではわかっています。それならば「正義」や「道徳」や「善悪」のような曖昧なものにはなおさら絶対的な正解などあるわけがなく、結局のところあらゆるものは「人それぞれ」ということになるのです。他人の価値観や思想について、いちいち「これが正しい」「あれは間違っている」とジャッジするよりも、「みんなちがって、みんないい」と、お互いを尊重しながら過ごした方が気持ち良く日々を送れそうですよね。

もし新選組の沖田や土方、攘夷派の望月や宮部が相対主義者でいてくれたら、池田屋であんなに人が死なずに済んだのになと思います。

新選組と攘夷派志士たちが、互いの思想を認め合ってくれていたら。斬り合うのではなく、「攘夷派さんも一理ありますね」「いえいえ新選組さんこそごもっともです」「では先斗町で一献いかがですか?」「それはよいですなあ」と、互いにリスペクトを持って交流してくれていたら……。もしそうだったら、なにが面白いんだそんな新選組……。人が死なない大河ドラマなんてなにも面白くないよね……卑怯な作戦で相手を殺してこその新選組なんだから……。

イラスト=やまねりょうこ

考えてみれば、相対主義は「みんなちがってみんないい」で争いを消し去る主義なので、とりわけ男子が好むような物語は、相対主義が採用されたら軒並みつまらなくなりますね。「人類も巨人も、みんなちがってみんないい」「青銅聖闘士ブロンズセイント黄金聖闘士ゴールドセイントも、みんなちがってみんないい」「嬴政えいせい羌瘣きょうかい蒙驁もうごう麃公ひょうこう肆氏しし録鳴未ろくおみ楊端和ようたんわも、みんなちがってみんないい」と和気あいあいやっていたら、「進撃の巨人」も「聖闘士星矢」も「キングダム」も人気低迷で連載が終わってしまいそうです。敵同士が互いを尊重する少年マンガなど、誰が読みたいものか。

が、しかし、物語と現実社会は別です。

娯楽のストーリーで思い切り対立を楽しむ分、現実の世界では相対主義に基づき対立せず干渉せず自分の好みに従って自由に生きる。

主義としてはもっとも古いもののひとつですが、価値観の多様化した21世紀にこそ最大の効用を発揮するのが、この相対主義だと言えるかもしれません。

文=さくら剛

本書では、こんなふうにユーモアをたっぷりと交えながら、あなたのハードな人生を攻略する手助けになるかもしれない22の主義・思想をご紹介しています。「こんな人生やってられるか……!」と自暴自棄になるその前に、あなたのお手元にどうか届きますように。

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<本書の目次>

まえがき


Chapter 1 道徳
正しさについてどう考えるか


第1章 相対主義
新選組も女子レスラーも陽気なインド人も……、人間は万物の尺度である。

第2章 功利主義
ゾンビを入れるとどうなるの? 最大多数の最大幸福。

第3章 人格主義(カント主義)
「いかなる時も絶対にウソをつくな」というカントの教え、現実には実行不可能説。

第4章 利己主義
ここだけの話、ガンジーだってマザーテレサだって、利己主義の支配からは逃れられないのです。

第5章 利他主義
「4月生まれは3月生まれよりも成功しやすい」という残酷な法則と、利他主義こそが究極の利己主義である理由。


Chapter 2 組織
身勝手な集団をどうまとめるか


第6章 社会主義①
資本主義サーキットで危険運転をする若手起業家ドライバーを例に、平等な社会について考えてみましょう。

第7章 社会主義②
選抜総選挙からセンター争いまで……過酷な競争で苦しむAKB48に、ためしに社会主義を適用してみましょう。

第8章 資本主義
ショッカーが「打倒・仮面ライダー」の悲願を果たすためには、資本主義と社会主義のどちらが良い?

第9章 自由主義(リベラリズムとリバタリアニズム)
親ガチャも子ガチャも運次第。もしもあなたが大谷家に赤ん坊の翔平君として生まれていたら……

第10章 民主主義
「民主主義は最悪の政治システムだ」ってチャーチルさんが言ってましたけど……。それな。

第11章 ポピュリズム(大衆迎合主義)
「ラーメンの鬼」佐野実さんの評価は、ラーメンの味でするべきだ! 佐野さんの怖さでするべきじゃない!


Chapter 3 認識
曖昧な現実をどう捉えるか


第12章 合理主義と経験主義
目の前に突然大好物の麻婆豆腐がボヨヨンと降ってきたら、あなたは食べますか? 食べませんか?

第13章 スピリチュアリズム、オカルティズム
高杉晋作はあの世でも戦い続けるし、日本は再魔術化しているし。

第14章 愛国主義
北朝鮮に行き、現地の人々に「愛国心対決」を挑んだ私! 見事に、大敗いたしました!

第15章 テロリズム
いかなる理由があろうとも、テロは断じて許されないのである‼ (テロリスト談)
スリランカとパレスチナ自治区で考えたこと。

第16章 構造主義①
リンクくんが「ゼルダの伝説」の世界から抜け出せないように、私たちはこの世界の「構造」から抜け出せないのです。

第17章 構造主義②
なんとなく従っている伝統や習慣……もしかすると、そこには何者かの思惑が隠されているかもしれません。


Chapter 4 幸福
自分の人生をどう生きるか


第18章 楽観主義VS悲観主義
この社会の「ポジティブ推し」にひとこと物申~~す‼ ポジティブシンキング、がっぺむかつく!

第19章 幸福主義と快楽主義
幸せとはなにか? この人類永遠の問いに、哲学者たちが出した答えとは……。

第20章 清貧主義VS拝金主義
1日1杯のコーヒーを節約すれば家が建つかもしれないけれど、家を節約すれば毎日コーヒーが飲めるのです。

第21章 懐古主義
「最近の若い奴らは……」とついつい言ってしまう、私とあなたとジャッキーチェン。

第22章 実存主義
人間はなんのために生きるのか? アルカトラズの囚人を襲った、刑務所より恐ろしい「自由の刑」について

あとがき

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さくら 剛 (さくら つよし)
1976年静岡県浜松市生まれの作家。デビュー作の『インドなんて二度と行くか!ボケ‼ …でもまた行きたいかも』が10万部を超えるベストセラーに。以降、『アフリカなんて二度と行くか!ボケ‼ …でも、愛してる(涙)。』『三国志男』『(推定3000歳の)ゾンビの哲学に救われた僕(底辺)は、クソッタレな世界をもう一度、生きることにした。』など著作多数。相対性理論など科学の世界を解説した『感じる科学』は、理研創立100周年を記念した「科学道100冊」に選ばれるなど高い評価を得ている。

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