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カエルが笑った|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第16回は、お得意先からの理不尽な要求にいら立つ部下をなだめる課長のお話です。部下に責められ、上司に叩かれる中間管理職の悲哀を感じた時、スマホの着信音から、「カエルの詩人」と呼ばれた草野心平の詩を思い出します。(ひととき2023年5月号「あの日の音」より)

「課長、オレ、正直、なんでさっき頭さげなきゃいけなかったか、わかんないです。納期の指定日時を間違えたのは、お得意先なんですよ」

 部下の林がそう言った。

 そんなことは、俺がいちばんわかってるよ、という言葉を飲み込み、

「軽く、一杯、行くか?」

 と、林をガード下の居酒屋に誘った。

 喧騒の店内。赤レンガの壁に囲まれた空間で気炎を吐いているのは、私たち同様、みんな、スーツを着たサラリーマンだった。

「お得意先のミスだとしてもだ、追い込んでどうする。追い詰めて何の得がある? ビジネスで大切なのは、パートナーには絶えず、逃げ道を用意しておくことなんだよ」

「わかってますけど、でも、なんか、悔しいじゃないですか。先方が間違ったメールを送ってきたのに、納期そのままって」

 林の怒りはおさまらない。ビールジョッキを傾けながら、明日、部長になんて報告するかを考える。きっと部長は、嫌味っぽくこう言うに違いない。
「納期に間に合わないって、どういうことですか? なんとかしてください」

 部下に責められ、上司に叩かれる。中間管理職の悲哀は、時代が変わってもなくならないのだろう。

 コロロロロ~

 突然、テーブルの上の林のスマホが鳴った。林は、着信音に気づかない。

「出ていいぞ」

 私が言うと、

「あ、お得意先からです。すみません」

 と彼は席を立って店の外に出て行った。

 着信音がまだ脳内に響いていた。まるで木々が強風にざわめくように、心の奥底がうずく。あの音は何かの音に似ている。遠い記憶がゆっくり立ち上がる。

 あれは、そう、小学生のとき、遠足で訪れた、長野県の八島湿原のシュレーゲルアオガエルの鳴き声。

 コロロロロ~

 湿原に延びる真っすぐな木の板の歩道。鳴き声がどこからやってくるのかわからない。担任の布川太郎先生は、突然、優しい声で言った。

「死んだら死んだで生きていくのだ」

 それが何を意味するのか、よくわからない。

「草野心平という詩人がいてね。彼はカエルの詩人と呼ばれていたんだけど、私はね、彼の詩のこの言葉が大好きなんだ。カエルはヘビにのまれても、笑うんだよ、きっと」

 それは小学生には理解できなかった。でも、今なら、少しわかる。
 林が帰ってきた。

「お得意先、なんか、その、納期をずらしていいって。さっきとは、全然違う雰囲気っていうか……」

 私は思わず、言った。

「カエルが、笑ったんだな」

 林はポカンとした表情で、私を見た。

文・絵=北阪昌人

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

※この物語はフィクションです。次回は2023年7月号に掲載の予定です

出典:
ひととき2023年5月号

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