特別展「教壇に立った鷗外先生」|文京区立森鷗外記念館
若干20歳で“先生”に
森鷗外(本名・林太郎。文久2[1862]-大正11[1922])は、明治17(1884)年~21(1888)年のドイツ留学後、陸軍軍医学校、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)、慶應義塾大学部(名称当時)文学科などの教官、講師を務めました。
今回の特別展会場は、「第一章 教壇に立った鷗外」、「第二章 教科書と鷗外」で構成されています。「第一章」では、陸軍軍医学校、東京美術学校、慶應義塾大学部などの学校ごとに、講義内容、教え子の回想などから“教師としての鷗外”が紹介されます。
鷗外は明治14(1881)年7月に東京大学医学部を卒業の翌年、私立東亜医学校で生理学を講義します。この時鷗外は20歳。鷗外が文筆活動を始めたのは大学卒業の頃、同時期に“先生”としてのキャリアもスタートしていました。
一見、古い教科書が並ぶ “地味”な展示ですが、出展資料を見ていくと、これまでの印象とは違った鷗外像が現れてきます。とくに明治22年(1889)年に開校したばかりの東京美術学校では、同24年から10年ほど「美術解剖学」、「美学」、「西洋美術史」を講義。教え子のなかには高村光太郎もいました。
後年、『審美綱領』や『審美新説』といった美学関係の著作も残している鷗外は、ドイツ留学中から美術に高い関心を寄せ、のちに帝室博物館(現在の東京国立博物館)総長や帝国美術院初代院長も務めるなど、美術分野でも重責を担いました。ドイツ留学での学術的な知識のほか、ヨーロッパの歴史や文化のなかに身を置いて見聞を広めたことにより、豊かな文化的教養を備えて、専門以外の科目も講義できたのだと想像できます。
教科書と鷗外
続いて「第二章」では、明治41(1908)年~大正9(1920)年に国定教科書(修身、唱歌)の編纂に携わった鷗外の活動と、鷗外の生前から、現在の私たちに至るまで、国語の教科書に掲載され続けている鷗外の作品について資料が展示されています。
鷗外は、出版社発行の国語の「検定教科書」と、文部省(名称当時)発行の修身(現在の道徳に相当)の「国定教科書」の編纂に長く携わりました。
皆さんがすぐに思い浮かべる”森鷗外の作品”は何でしょう。中学や高校の教科書で「山椒大夫」、あるいは「舞姫」でしょうか。詳しくはぜひ展覧会場でご覧いただきたいのですが、「教科書に掲載された鷗外作品」がどのような観点で教科書に掲載されてきたかの紹介と、時代別の“掲載数ランキング”は、とても興味深い視点です。
ちなみに鷗外が最初に発表した創作小説の「舞姫」が上位に挙がるのは第二次大戦後以降のことで、時代によって全く違う結果に驚きました。
じつは“お受験パパ”だった(?)鷗外
そしてもう一つ見逃せないコーナーは、「父・鷗外の教科書」です。
長男の於菟は8歳頃からドイツ語の手ほどきを受けていました。鷗外が小倉に単身赴任中(明治32[1899]~35[1902]年)も、ドイツ語学習の教材を手作りし、東京の住まい(観潮楼)に週1回のペースで送り、於菟は時々出題される問題への回答や質問を記入して送り返すという、現代でいう通信教育のような形でドイツ語を教えていました。その成果はのちに父と息子の共訳本として、グリム童話集『しあはせなハンス』刊行(昭和23[1948]年)に結実します。
本展の展覧会図録には、於菟が翻訳した「賢い百姓の娘」(鷗外主宰雑誌「万年草」に収載)の校正刷(明治37[1904]年)が掲載されていますが、鷗外が細かく添削している様子がわかります。この時於菟は、獨逸学協会中学校(現・獨協中学・高等学校)に在学中の14歳(!)。於菟自身も熱心にドイツ語を習得したのでしょう。
また、次女の杏奴の高等女学校受験のために準備したと思われる、「尋常小学校修身書」や教師用の「尋常小学校算術書」が残されているほか、鷗外自筆の「杏奴の時間割表」も出展されています。これらのほか参考図版として展覧会図録には鷗外自筆の「歴史の教科書」が掲載されていますが、関連する地理(地図)の絵図とともに日本史の解説文が書かれており、こうした一連の資料を見ると、現代で言えば“お受験パパ”と言っても過言ではないくらいの“教育熱心な父親”像も浮かび上がります。
じつはこの頃鷗外は体調を崩しており、大正11年4月に杏奴は仏英和高等女学校(現・白百合学園中学高等学校)に合格・進学しますが、それを見届けるように同年7月に逝去しました。
軍医として日清・日露戦争の戦地に赴き、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長という軍医として頂点を極めた森鷗外。一方で文学者としても数々の作品を残しました。それに加えて、私たちが学校で毎日のように触れていた国語の教科書にも深くかかわっていたのです。鷗外の作品が掲載されていただけでなく、その教科書を作り、長いあいだ教育者としても尽力していたという鷗外の業績を知って、これまでより鷗外がずっと身近に感じられました。
記念館の建つ敷地内には、かつての「観潮楼」時代からある大銀杏や「三人冗語の石」(鷗外が座し、幸田露伴、斎藤緑雨とともに写る写真で知られる)があり、館内のカフェから眺めることもできます。ちょっとしたお土産にもぴったりのオリジナルグッズも豊富なミュージアムショップもありますので、こちらもお見逃しなく。
文学作品が好きな方も、谷根千の路地歩きが好きな方も、鷗外の知られざる一面に触れてみてはいかがでしょうか。
展示資料写真・参考資料データ提供=文京区立森鷗外記念館
文・会場写真=根岸あかね
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