歴史学者・磯田道史とめぐる司馬遼太郎の大阪散歩

『坂の上の雲』『燃えよ剣』など数々の名作で知られる国民的作家・司馬遼太郎は、大阪で生まれ育ちました。司馬の小説や随筆にはよく、生き生きとした人が住む生き生きとした町として、大阪が登場します。司馬作品ゆかりのスポットを歴史学者・磯田道史さんと散策しながら、今も変わらぬ大阪の街と人の魅力を探ります。（ひととき9月号特集「生誕100年 司馬遼太郎 大阪逍遥」より）
＊在りし日の司馬遼太郎（写真提供=司馬遼太郎記念財団）

　小学生時代から司馬作品の愛読者という歴史学者・磯田道史さんと歩く大阪の旅。その始まりは、緑豊かな寺町めぐりから。

天王寺七坂

　大阪城の南、難波宮なにわのみやから天王寺までの上町筋うえまちすじ周辺には、約200もの寺社が立ち並ぶ。かつて大坂*を支配した豊臣秀吉は、ここに寺を集め、頑丈な門と分厚い土塀が壁となって連なるようにして、城塞の役割も担わせたのだという。寺と寺の間を通る真言坂しんごんざか、源聖寺坂げんしょうじざか、口縄坂くちなわざか、愛染坂あいぜんざか、清水坂きよみずざか、天神坂てんじんざか、逢坂おうさかの通称「天王寺七坂」は、今は散策コースとして人気だ。

＊戦国時代から江戸時代にかけての記述では、当時の表記「大坂」を用いています

　司馬は江戸と大坂の盗人が腕を競うという風変わりな短編「泥棒名人」の中で、この辺りのことを記している。

江戸は市中に谷と崖と坂がふんだんにあるが、葦のしげる淀川の三角洲に発達した大坂の町は、そうした凹凸にめぐまれていない

　江戸の泥棒・音次郎が向かったのは、源聖寺坂だ。

源聖寺坂をのぼれば、死者の町である。築地塀のくずれから卵塔がのぞき、死霊を擁した本堂のいらか、、、が、月もないのに暗闇の空へぶきみな薄光を放っている

　恐ろし気な書き方だが、実際に歩いてみると、日差しもよく届く緩やかな階段状の坂道だ。坂の上の齢延寺れいえんじには、江戸後期、漢学塾「泊園はくえん書院」を開いた儒学者、藤澤東畡とうがい・南岳なんがく父子の墓所がある。砲術家の高島秋帆しゅうはんや明治期に外務大臣となる陸奥宗光むねみつらが学んだ泊園書院は、関西大学の礎のひとつとなった。司馬も小説『世に棲すむ日日』の中で、吉田松陰が影響を受けた変わり者の学者・森田節斎せっさいが、東畡と対面した場面を描いている。また、口縄坂付近の浄春寺じょうしゅんじには、やはり江戸後期の天文学者・麻田あさだ剛立ごうりゅう、画家・田能村たのむら竹田ちくでん、春陽軒しゅんようけんには国学者の尾崎雅嘉まさよし、太平寺たいへいじには医家・北山寿安じゅあんの墓所もある。

土方歳三の生涯を描いた司馬の小説『燃えよ剣』に登場する、口縄坂くちなわざかを歩く

　磯田さんによると、大坂は、新しい思想を持った人たちにとっては、願ってもない「解放区」だった。

「麻田はヨーロッパの最先端の軌道計算を学んで、豊後を離れた人ですし、竹田も豊後の岡藩で藩政改革を訴えたものの退けられてここに来た。中国の科挙やヨーロッパの会議など、身分に基づかない制度を知る知識人、オタクがこの界隈に集まって、想像を絶する会話が飛び交っていたと思いますよ。江戸徳川の武士の世界は、政治力と武力、力が強い相手だから、出したくもない年貢を出す。力の支配です。大坂の支配は、知識と財力。お金を持ってる相手に品を出す。経済の論理で動く町なので、思想統制が難しい。江戸とは庶民の自由度が違います。それがよくわかるのが、墓ですね。大坂の豪商の墓はものすごく大きく、大名並みのものさえある。江戸でやったら大事おおごとですよ（笑）。大坂は人々の耳目を驚かせてもいい。その余風が、今もみんなの目を引く巨大な蟹の看板でしょう」

　道筋が蛇（口縄）のようと言われる口縄坂は高台「夕陽丘ゆうひがおか」に通じている。地名の由来は、古来、ここから眺める大坂湾の夕陽が美しく、13世紀、歌人の藤原家隆ふじわらのいえたかが「夕陽庵せきようあん」を結んだこととされるが、近世、革新的な考えを持つ人々がここで熱く語り合ったと思うと、この地名は青春ドラマにも通じる気がしてくる。

　江戸幕府の命運が尽きようとしたころには、寺町の一角の萬福寺が、「新選組大坂旅宿」となった。

「多くの若者が学び、自由の風が吹く町に新選組が滞在したというのは面白いですね。近所には大坂の陣で敗れ、逃れてきたと伝わる真田信繁のぶしげ（幸村ゆきむら）の終焉の地・安居神社もある。さまざまな考えの人間が交錯し、歴史の現場になった地域だと思います」

真田幸村が無念の死を遂げた安居神社。境内には、幸村の遺徳をしのぶ銅像がたたずむ

洪庵が開いた適塾

　もう1カ所、大坂の学びの場として知られるのが、幕末の医学者・蘭学者の緒方洪庵こうあんが開いた北浜きたはまの「適塾てきじゅく」だ。

江戸時代の町屋の姿をとどめる適塾。蘭学塾としては唯一の遺構で、建物内部を見学できるだけでなく、当時の貴重な資料展示を通じて理解を深められる（写真提供＝大阪大学適塾記念センター）

　岡山足守あしもり藩士の子として生まれた洪庵は、大坂、長崎で蘭学を修め、29歳のときに学塾を開く。その評判は高く、全国から入門者が集まり、橋本左内さない、司馬の『花神かしん』の主人公となる大村益次郎ますじろう、福沢諭吉、大鳥圭介ら多くの人材を育成した。

　適塾は、オフィス街に町屋の姿をそのままに保存されている。塾生が貴重なヅーフ辞書（蘭和辞書）を奪い合うようにして学んだ「ヅーフ部屋」、多くの塾生が寝泊まりした大部屋には彼らが柱につけた傷も残り、往時の学習熱をしのばせる。

ヅーフ辞書は適塾に一冊しかなかった　写真提供＝大阪大学適塾記念センター

　亡くなる7年ほど前、司馬は、小学5年生に向けた「洪庵のたいまつ」という文章を書いた。その出だしは、

世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない

　洪庵は病弱な自分を歯がゆく思っていたが、司馬は、

人間は、人なみでない部分をもつということは、すばらしいことなのである。そのことが、ものを考えるばねになる

　と記す。自分の志の火を弟子たちに移し続けた洪庵への尊敬と、こどもたちへのエールが込められた一編だ。

文＝ペリー荻野　写真＝荒井孝治

──磯田さんと取材班はこの後、大阪繁栄のシンボルである「大阪城」、そして夜の道頓堀へと向かいます。談論風発博覧強記、話し出したら止まらない磯田さんの名調子はこの後も絶好調。続きはぜひ本誌9月号をご一読ください。

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＜目次＞
・東大阪市・司馬が暮らした地 
・インタビュー 上村洋行さん／竹下景子さん
・大阪市・司馬文学散歩 
・生誕100年 司馬遼太郎 大阪逍遙〔案内図〕

出典：ひととき2023年9月号

ひととき2023年9月号【特集】生誕100年 司馬遼太郎　大阪逍遙

磯田道史（いそだ・みちふみ）
歴史学者。国際日本文化研究センター教授。専門は近世の藩政改革。『武士の家計簿』『無私の日本人』などベストセラー多数。最新刊は『徳川家康　弱者の戦略』（文春新書）

◉安居神社
☎06-6771-4932　大阪市天王寺区逢阪1-3-24
［時間］7時～17時
［休日］無休

◉旧緒方洪庵住宅（適塾）
☎06-6231-1970
大阪市中央区北浜3-3-8
［時間］10時～16時
［休日］月曜、祝日の翌日
［料金］270円、高校生・大学生140円、中学生以下無料

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