コハクチョウが鳴く声|文=北阪昌人
なんとも、気が重い出張だった。
滋賀県長浜市の衣料雑貨店の店主、木之元正雄さんが、正直、苦手だった。僕の直属の上司、田中課長は、「おお、田野岩、いいなあ、滋賀かあ。ふなずしが、うまいぞ~。春に仕込んで発酵させたやつが、いい感じにできあがってるはずだ。しっかり食べて来い」と、笑顔で送り出してくれたけれど……。
入社三年目の僕にとって、いちばん大切なのは、コスパとタイパ。すなわち、費用対効果と、時間対効果。いかに効率よく、少ない時間で成果をあげられるか。それがビジネスマンの最も重要なミッション、タスクだと思っている。
ところが、木之元さんは、とにかく無駄話が長い。プロ野球、阪神タイガースの話から始まり、お孫さんの少年野球の活躍を身ぶり手ぶりを交えながら、実況中継。商談に辿り着くまで、およそ一時間を要する。残念ながら、僕は野球に興味がなく、せっかくの熱演への感想も「すごいですね」しかない。ただでさえ、正月明けの出張は過密スケジュール。かなり欲張ってアポを入れている。
木之元さんのお店に到着。さっそく、野球の話? と身構えていたら、いきなり、
「琵琶湖に行きませんか? 一緒に」と言った。断る隙も与えず、木之元さんは、僕を湖北野鳥センターに連れて行った。
「コホッ コホーッツ」まず声が聴こえた。
これは、コハクチョウだ。彼らの鳴き声を耳にしたら、胸の奥が懐かしさであふれた。
「毎年、この時期になると、彼らに会うのが楽しみでねえ。ああ、ほら、あそこ、白鳥。真っ白なのが大人で、少し灰色なのが若い鳥。クチバシあたりが黄色くて、可愛いでしょう」
木之元さんは口ひげをさすりながらニコニコ見ている。
「コハクチョウ、懐かしいです」僕が言うと、意外そうな顔でこっちを見た。
僕が生まれ育った鳥取県米子市にも、シベリアから彼らがやってくる。幼い頃、田んぼのあぜ道を歩いていると、落ち穂をついばむコハクチョウに遭遇した。あの、鳴き声……。優しくて、どこかせつない。そうだ、僕は冬休みの宿題で彼らの生態を観察し、図解入りでレポートを書いたのだった。担任の先生が褒めてくれた。
「田野岩君がこれを仕上げるために、どれだけの時間を使ったか。じっくり時間をかけたものは、尊いんです」
あの時の先生の真剣な表情を覚えている。
湖面に集う彼らを見ながら木之元さんが言った。
「ああ、今日は、田野岩さんと一緒に見られてよかった。田野岩さんが来てくれると、なんだかうれしくてねえ。つい無駄話ばかりしてしまう。毎回、反省しているんです」
「コホッ コホーッツ」
一羽の大きなコハクチョウが、真っ青な空に飛んだ。今日は、木之元さんとゆっくり話がしたいなあと思いながら、鳥の行方を見守った。
「コホッ コホーッツ」
もう一度、遠く鳴き声が聴こえた。
※史実をもとにしたフィクションです。次回は2024年3月号に掲載の予定です
出典:ひととき2024年1月号
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