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コハクチョウが鳴く声|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第20回は気が重かったはずの出張先で聴いた、コハクチョウが鳴く声です。いかに効率よく成果をあげるかを考える入社三年目のビジネスマンにとって、雑談の長い商談相手のいる滋賀を訪れるのは気が重いものでしたが、コハクチョウの鳴き声を聞いたとき、忘れかけていたことを思い出します。(ひととき2024年1月号「あの日の音」より)

なんとも、気が重い出張だった。

 滋賀県長浜市の衣料雑貨店の店主、木之元正雄さんが、正直、苦手だった。僕の直属の上司、田中課長は、「おお、田野岩、いいなあ、滋賀かあ。ふなずしが、うまいぞ~。春に仕込んで発酵させたやつが、いい感じにできあがってるはずだ。しっかり食べて来い」と、笑顔で送り出してくれたけれど……。

 入社三年目の僕にとって、いちばん大切なのは、コスパとタイパ。すなわち、費用対効果と、時間対効果。いかに効率よく、少ない時間で成果をあげられるか。それがビジネスマンの最も重要なミッション、タスクだと思っている。

 ところが、木之元さんは、とにかく無駄話が長い。プロ野球、阪神タイガースの話から始まり、お孫さんの少年野球の活躍を身ぶり手ぶりを交えながら、実況中継。商談に辿り着くまで、およそ一時間を要する。残念ながら、僕は野球に興味がなく、せっかくの熱演への感想も「すごいですね」しかない。ただでさえ、正月明けの出張は過密スケジュール。かなり欲張ってアポを入れている。

 木之元さんのお店に到着。さっそく、野球の話? と身構えていたら、いきなり、

「琵琶湖に行きませんか? 一緒に」と言った。断る隙も与えず、木之元さんは、僕を湖北野鳥センターに連れて行った。

「コホッ コホーッツ」まず声が聴こえた。

 これは、コハクチョウだ。彼らの鳴き声を耳にしたら、胸の奥が懐かしさであふれた。

「毎年、この時期になると、彼らに会うのが楽しみでねえ。ああ、ほら、あそこ、白鳥。真っ白なのが大人で、少し灰色なのが若い鳥。クチバシあたりが黄色くて、可愛いでしょう」

 木之元さんは口ひげをさすりながらニコニコ見ている。

「コハクチョウ、懐かしいです」僕が言うと、意外そうな顔でこっちを見た。

 僕が生まれ育った鳥取県米子よなご市にも、シベリアから彼らがやってくる。幼い頃、田んぼのあぜ道を歩いていると、落ち穂をついばむコハクチョウに遭遇した。あの、鳴き声……。優しくて、どこかせつない。そうだ、僕は冬休みの宿題で彼らの生態を観察し、図解入りでレポートを書いたのだった。担任の先生が褒めてくれた。

「田野岩君がこれを仕上げるために、どれだけの時間を使ったか。じっくり時間をかけたものは、尊いんです」

 あの時の先生の真剣な表情を覚えている。

 湖面に集う彼らを見ながら木之元さんが言った。

「ああ、今日は、田野岩さんと一緒に見られてよかった。田野岩さんが来てくれると、なんだかうれしくてねえ。つい無駄話ばかりしてしまう。毎回、反省しているんです」

「コホッ コホーッツ」

 一羽の大きなコハクチョウが、真っ青な空に飛んだ。今日は、木之元さんとゆっくり話がしたいなあと思いながら、鳥の行方を見守った。

「コホッ コホーッツ」

 もう一度、遠く鳴き声が聴こえた。

※史実をもとにしたフィクションです。次回は2024年3月号に掲載の予定です

出典:ひととき2024年1月号

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

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