刻太鼓の音|文=北阪昌人
ドンッドンッドンッ!
体に響く音で目が覚めた。私は眠い目をこすりながら、ヘアゴムで髪の毛を結ぶ。ベランダの窓を開けると薫風と共に、工事の音がやってきた。
そうだった。私が暮らすマンションの向かいは今まで空き地だったけれど、新しいビルが建設されるのだ。
ドンッドンッドンッ!
月曜日の朝に聴くには愉快な音ではないかもしれないが、そのとき私はつい、微笑んでしまった。
その音は、似ていた。愛媛県松山市の道後温泉の刻太鼓の音に……。
先週末、私は初めて道後温泉を訪れた。私が入っている「夏目漱石の会」の4年ぶりのオフ会だ。会長が企画した、名作『坊っちゃん』の舞台といわれる道後温泉の体験ツアー。リアルに会員のみなさんに会うのが楽しみだった。
私は別に読書家でも、文学が好きなわけでもないけれど、子どもの頃から空想癖があった。今思うと、それはただの現実逃避だったのだろう。でも、飼っている猫が、もし、しゃべれたら……。そう思うだけでワクワクした。初めて『吾輩は猫である』を読んだとき、私と同じようなことを考える人がいると、うれしくなった。以来、漱石だけは、読み続けた。
久しぶりのオフ会で、会いたい人がいた。最高齢の城崎辰夫さん。何も知らない私にも懇切丁寧に漱石の魅力を教えてくれる人。城崎さんは言った。
「私はねえ、思うんです。漱石は作家になるきっかけを、道後温泉でつかんだんじゃないかなあってねえ。松山中学の先生から、誰もが知る小説家になれた秘密が、道後温泉にはあるような気がします」
「小説家になれた、秘密……」
「『万葉集』にも出てくる、いにしえの湯につかり、親友で俳人の正岡子規と語り合う。そのとき、彼の心の文学のつぼみが花を咲かせたんじゃないかと」
オフ会のサプライズ。実は、城崎さんの傘寿のお祝いをみんなでするという計画があった。
その宴席の最中、遠く、聴こえた。
ドン! ドン! ドン!
午後6時。刻太鼓の音だ。道後温泉では開館、そして時刻を知らせる目的で、太鼓が打ち鳴らされる。明治27年から続いているといわれるこの音を、漱石も聴いたのだろうか。
隣の席で飲んでいた城崎さんは、珍しく酒に酔ったのか、顔が赤かった。彼は、私に言った。
「人が一歩前に踏み出せるきっかけは、どこにあるかわかりません。どうか、一日一日の出会いに、心を配ってください」
なんだか私は泣きそうになってしまった。
実は、会社でトラブルに巻き込まれ、憂鬱な日常の中にいた。でも、全ての出来事に意味があるとすれば、そこにも私が成長できる「きっかけ」があるのかもしれない。城崎さんの言葉を聞いて、そう思った。
ドンッドンッドンッ!
マンションの前では、工事が進む。その音は刻太鼓に重なり、私の背中を押してくれた。
出典:ひととき2024年5月号
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