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刻太鼓の音|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第22回は、道後温泉(愛媛県松山市)で時刻を知らせるとき太鼓だいこの音です。会社でトラブルに巻き込まれて憂鬱な日々を送っていた彼は、太鼓の音を聴いた時、道後温泉で”漱石が小説になれた秘密”を教えてもらったことを思い出します。(ひととき2024年5月号「あの日の音」より)

ドンッドンッドンッ!

 体に響く音で目が覚めた。私は眠い目をこすりながら、ヘアゴムで髪の毛を結ぶ。ベランダの窓を開けると薫風と共に、工事の音がやってきた。

 そうだった。私が暮らすマンションの向かいは今まで空き地だったけれど、新しいビルが建設されるのだ。

 ドンッドンッドンッ!

 月曜日の朝に聴くには愉快な音ではないかもしれないが、そのとき私はつい、微笑んでしまった。

 その音は、似ていた。愛媛県松山市の道後温泉のとき太鼓だいこの音に……。

 先週末、私は初めて道後温泉を訪れた。私が入っている「夏目漱石の会」の4年ぶりのオフ会だ。会長が企画した、名作『坊っちゃん』の舞台といわれる道後温泉の体験ツアー。リアルに会員のみなさんに会うのが楽しみだった。

 私は別に読書家でも、文学が好きなわけでもないけれど、子どもの頃から空想癖があった。今思うと、それはただの現実逃避だったのだろう。でも、飼っている猫が、もし、しゃべれたら……。そう思うだけでワクワクした。初めて『吾輩は猫である』を読んだとき、私と同じようなことを考える人がいると、うれしくなった。以来、漱石だけは、読み続けた。

 久しぶりのオフ会で、会いたい人がいた。最高齢の城崎きのさき辰夫さん。何も知らない私にも懇切丁寧に漱石の魅力を教えてくれる人。城崎さんは言った。

「私はねえ、思うんです。漱石は作家になるきっかけを、道後温泉でつかんだんじゃないかなあってねえ。松山中学の先生から、誰もが知る小説家になれた秘密が、道後温泉にはあるような気がします」

「小説家になれた、秘密……」

「『万葉集』にも出てくる、いにしえの湯につかり、親友で俳人の正岡子規と語り合う。そのとき、彼の心の文学のつぼみが花を咲かせたんじゃないかと」

 オフ会のサプライズ。実は、城崎さんの傘寿さんじゅのお祝いをみんなでするという計画があった。

 その宴席の最中、遠く、聴こえた。

 ドン! ドン! ドン!

 午後6時。刻太鼓の音だ。道後温泉では開館、そして時刻を知らせる目的で、太鼓が打ち鳴らされる。明治27年から続いているといわれるこの音を、漱石も聴いたのだろうか。

 隣の席で飲んでいた城崎さんは、珍しく酒に酔ったのか、顔が赤かった。彼は、私に言った。

「人が一歩前に踏み出せるきっかけは、どこにあるかわかりません。どうか、一日一日の出会いに、心を配ってください」

 なんだか私は泣きそうになってしまった。

 実は、会社でトラブルに巻き込まれ、憂鬱な日常の中にいた。でも、全ての出来事に意味があるとすれば、そこにも私が成長できる「きっかけ」があるのかもしれない。城崎さんの言葉を聞いて、そう思った。

 ドンッドンッドンッ!

 マンションの前では、工事が進む。その音は刻太鼓に重なり、私の背中を押してくれた。

出典:ひととき2024年5月号

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

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