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「ひととき」の特集紹介

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旅の月刊誌「ひととき」の特集の一部をお読みいただけます。
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#一度は行きたいあの場所

ひと粒の命を輝かせる人々|真珠のゆりかご 伊勢志摩へ(ひととき6月号特集)

“ハネ珠”に価値を与える 尾崎ななみさんにとって、志摩市英虞湾にある祖父・中北敏広さんの真珠養殖場は遊び場だった。学校が休みになると、両親に連れられて伊勢市から会いに行ったのだ。祖父の操る船が軽快なエンジン音を立てて、青い空を映した穏やかな海をすべっていく。入り組んだリアス海岸で水平線は見えないけれど、どこまでも続く緑の海岸線と、その間に浮かぶ真珠養殖の筏を眺めていた。船に乗るのは楽しかったし、日に焼けた頑健な祖父は頼もしかった。筏に着いて船が停まると、小さな波が音を立てるの

[有田焼・香蘭社]ジャポニスムブームがアメリカに広がった時代|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

 ウィーンへの派遣団の中に、納富介次郎という男がいた。もともと絵が巧みな佐賀藩士で、幕末には上海に渡った経験を持つ。  納富は万博閉会後に、フランスのセーブルなどヨーロッパ各地の焼物の地におもむいた。そこで石膏型を用いて、粘土液を流し込むなど、同じ形の器を量産する方法を習得。ろくろほど手間がかからず合理的で、帰国後は有田に技術を伝えた。  美術史家の森谷美保さんによると、納富は次のフィラデルフィア万博用の図案集を、新政府に提案したという。  それが実現して「温知図録」が

[有田焼]開国を契機に世界へ|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦

 有田の人々の目が、ふたたび海外に向いたのが幕末だった*。通商条約が結ばれて自由貿易が始まり、ジャポニスムのブームや万博への出展も相まって、有田焼は世界に返り咲いていく。  1870(明治3)年にはドイツ人技術者のワグネルが有田に招かれ、西洋の先端技術を伝えた。鮮やかな青や緑、桃色、黄色など、発色のいい西洋絵具が導入され、有田の人々の製作意欲は上がった。  幕末のパリ万博の次が、1873(明治6)年のウィーンだった。明治政府は新生日本をアピールしようと、威信をかけて大規模

福井・北前船と夢の町(南越前町)|北陸新幹線開通記念特集

海運と商才と──南越前町 風を受けていっぱいにふくらんだ白い帆の力で、がっしりとした木組みの船体が海を滑るように進んでいく。「どんぐり船」とも呼ばれるでっぷりした腹の中には、各地の自慢の産物がぎっしりと詰め込まれている。  江戸時代の半ばから、1897(明治30)年ごろまで、こうした「北前船」が日本海を数多く行き来した。当時の船絵馬や錦絵には、入港してくる大小の白帆や、帆を下ろして停泊する船がいくつも描かれ、湊のにぎやかなようすが伝わってくる。水軍力抑止のため、大型船建造を

社会学者・中井治郎さんが見つめる観光都市「京都」の今昔|「そうだ 京都、行こう。」の30年

【ポスター ’96 冬】 【ポスター ’05 春】 【ポスター ’12 夏】  京都の歴史を、観光都市の側面から振り返ると、この街が初めて「伝統」を意識したのは、「都」を江戸に譲った時だったのではないかと思います。政の中心を江戸、商の中心を大坂が担う中、京都が拠り所にしたのは天皇を擁していること、すなわち「伝統」でした。よそから訪れる人に向け、いかにこの伝統をプレゼンしていくかを考える過程で、京都の観光文化は洗練されていったのでしょう。  明治の時代になり、天皇も京都

常盤貴子さんと桜色の京歩き|「そうだ 京都、行こう。」の30年

 京都を舞台とする数々の作品出演はじめ、昨今は京都府文化観光大使としても、古都の魅力発信に貢献する俳優の常盤貴子さん。京都好きは10代の頃からで、デビュー以来、わずかな時間を見つけては新幹線に飛び乗っていた、という筋金入り。 「冬の京都の、キーンと冴えた空気感も好きですが、ふらっと来たくなるのは、やっぱり春かな。あのCMの名コピーに何度、誘われて来たことか(笑)。ね? お誘いいただいているのならば……って、気分になるでしょ?」 【ポスター’10 春】  そんな常盤さんと

若冲と並ぶ“奇想の絵師”芦雪が南紀に残したもの(和歌山県串本町)

串本で芦雪に出会う無量寺境内にある「串本応挙芦雪館」には、別記事でご紹介した虎と龍の襖絵のほかにも芦雪作品を14点、常設展示しています。その中から厳選して3作品をご紹介いたします。 串本応挙芦雪館芦雪の襖絵をはじめ、「寺宝を大切にしたい」という思いを共有する、地域の人々の支援のもと設立された。重要文化財の襖絵などを保管する収蔵庫と展示室(写真)がある 1.布袋・雀・犬図3幅でひとつの場面を描く。中幅は、大きな袋の上に座る布袋が唐人人形を操っている。右幅には、袋からこぼれ出

「奇想の絵師」の才能が開花した地へ|南紀と長沢芦雪(和歌山県串本町)

串本町 本州最南端へ 江戸時代後期の天明の世、ひとりの絵師が本拠地である京都をあとにして紀伊半島の南部へと旅に出た。その名を長沢芦雪。写生を重視した円山派の祖、円山応挙の門弟である。  旅の目的は届け物だった。本州最南端の地、串本町の無量寺は地震による大津波で流失する悲運に遭ったが、およそ80年後に当時の住職だった愚海和尚が再建した。愚海は応挙と長年の親交があった。ずっと再建に奮闘する愚海に応挙はつねづね言っていた。 「あなたの寺院が完成したときは、前途を祝い必ずわたしの

七つの浦を巡って出会う、もうひとつの宮島|歴史が生んだ佳景(後編)

7つの浦の神社を巡る  厳島には、ほかにもたくさんの神々がお鎮まりになる。島の周囲約30キロ、その浦々にも神々が祀られる。船で島を一周しながら、そのうちの7つの浦を拝する嚴島神社の神事が「御島廻り」だ。 「七浦巡り」とも呼ばれるこの神事のいわれが、嚴島神社御鎮座の伝説である。  紅い帆を揚げた船に乗ってやって来た女神は、厳島で鎮座する場所を探していた。地元の有力者と一緒に船に乗っていると、島内からカラスが現れる。神の使いであるこの「神鴉」が一行を導き、ある場所で姿を消し

【宮島】神住まう、島の祈り|歴史が生んだ佳景(前編)

神の島の祈りの歴史 「安芸の宮島」とも呼ばれる厳島は、古名を「いつきしま」という。「神を斎き祀る島」ということだ。  島そのものがご神体である。常緑の深い森に覆われた山々が峻厳にそそり立つこの島の姿を、古代、船で行き交う海の民は畏れ崇めた。神域を侵すなど思いもよらず、瀬戸を隔てた対岸から遥拝、あるいはわずかに岸辺に上がって祈りを捧げた。  島には地元のひとびとにそのように祀られた、たくさんの神がいた。なかでもよく知られる嚴島神社は、縁起によれば593(推古天皇元)年に創

花火は一瞬、思い出は一生(花火写真家・金武 武さん)

花火との出会いは17歳の夏だった。横浜の山下公園、蒸し暑い大混雑の中でズドンッと大きな花火が輝き、衝撃波で身体が揺さぶられた。 「何て凄いんだ!」 次々開く花火が心に焼き付いた。感動もしたが、同時にショックも受けた。美しく輝いた花火は跡形もなく消えてしまう。なんて儚いのだろう……。感動、ショック、そして涙。あの日から花火を追い掛ける人生が始まった。  コロナ禍以前は国内で年間4000回以上の花火大会が開催されていたという。日本は花火大国だ。そして今年、各地で花火大会が再

日本の花火のはじまりの地、愛知県三河地方・岡崎へ

にっぽんの夏。夏の花火。灼熱の太陽がようやく沈み、ほっと息をつく夜が来るころ、漆黒の空に花火が打ち上がる。ひとつ、ふたつ。そして無数に、次々と。鮮やかな光が花開き、破裂音がどんと身体を震わせる。日本に暮らす私たちにとって、花火とは懐かしい、夏の記憶そのものだ。  江戸時代から続く奉納花火 菅生神社おおらかに流れる乙川のほとりを散歩やジョギングを楽しむひとたちとすれ違いながら歩いていく。愛知県岡崎市は徳川家康の出生地だ。家康の生まれた岡崎城の城下町、そして東海道の宿場町として