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あの日の音

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音をテーマに、史実をベースとして歴史的、運命的な一瞬をひもといていく短編小説。「NISSAN あ、安部礼司」などラジオドラマの脚本多数を手掛ける北阪昌人さんによる連載です。
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記事一覧

刻太鼓の音|文=北阪昌人

ドンッドンッドンッ!  体に響く音で目が覚めた。私は眠い目をこすりながら、ヘアゴムで髪の毛を結ぶ。ベランダの窓を開けると薫風と共に、工事の音がやってきた。  そうだった。私が暮らすマンションの向かいは今まで空き地だったけれど、新しいビルが建設されるのだ。  ドンッドンッドンッ!  月曜日の朝に聴くには愉快な音ではないかもしれないが、そのとき私はつい、微笑んでしまった。  その音は、似ていた。愛媛県松山市の道後温泉の刻太鼓の音に……。  先週末、私は初めて道後温泉を

迷いを消す御瀧の音|文=北阪昌人

 春の雨は、容赦なく降り続いた。急きょ買ったビニール傘の上で雨粒が踊る。スーツのズボンの裾は、濡れて重くなっていた。  得意先でのプレゼンは、我ながらうまくいったと思う。商品開発部から営業部に異動になった当初は、クリエイティブな仕事ができなくなると意気消沈していたが、営業という仕事がいかにクリエイティブに満ちているか、ようやくわかるようになってきた。  芽吹き始めた街路樹の並木通りを歩きながら、雨の音を聴く。ザーッ、ザザーッザザーッ! ふと、懐かしい思いがこみ上げて来た。

コハクチョウが鳴く声|文=北阪昌人

なんとも、気が重い出張だった。  滋賀県長浜市の衣料雑貨店の店主、木之元正雄さんが、正直、苦手だった。僕の直属の上司、田中課長は、「おお、田野岩、いいなあ、滋賀かあ。ふなずしが、うまいぞ~。春に仕込んで発酵させたやつが、いい感じにできあがってるはずだ。しっかり食べて来い」と、笑顔で送り出してくれたけれど……。  入社三年目の僕にとって、いちばん大切なのは、コスパとタイパ。すなわち、費用対効果と、時間対効果。いかに効率よく、少ない時間で成果をあげられるか。それがビジネスマン

空に浮かんだクレヨン|文=北阪昌人

「詩織、お誕生日、おめでとう」 「ありがとう、美玖」  久しぶりに会った美玖は、やっぱりきれいだった。最新トレンドの服を着こなすセンスも健在で、私はせめてもっといい靴を履いてくればよかったと後悔する。  指定された高層ビルのレストランからはビル群の灯りが見えた。 「誕生日、覚えていてくれたんだね」  私が言うと、「まあね」とくすっと笑った。  私と美玖は、建設会社の同期。同じ営業部に配属され、愚痴を言い合ったり、褒め合ったり、つらい新人時代をなんとか二人で乗り越え

ゴッホと渦潮|文=北阪昌人

 宣伝部の会議室では、広告会社によるプレゼンテーションが行われていた。 「今回の新しいレトルトカレーのコンセプトである〝家族の団欒〟〝ぐつぐつ丁寧に煮込んだ〟の2つを合わせたデザインのご提案ですが、参考にしたのは、これです」  暗い室内に、映し出されたのは、一枚の絵画。糸杉と、夜空に浮かぶ無数の渦巻き。 「フィンセント・ファン・ゴッホが36歳のときに描いたと言われている「星月夜」という作品です。ゴッホは、星を、ものすごく大きな渦巻きとして、描いたんですねえ、まるで希望の

父のかき氷|文=北阪昌人

奈良の氷室神社が見えてきたあたりで、母から電話があった。 「夏希、ねえ、たまには、お父さんに電話してあげてよ。ああいう人だから、口には出さないんだけどね、一人娘の顔を見たいのよ。このところ、すっかり歳とっちゃって、元気ないの」 「ごめん、お母さん、仕事中だから」 「あ、ああ、ごめんねえ、電話、切るね」 仕事中というのは半分嘘で半分本当。 奈良には出張で来ていて、さっきまで新しいプロジェクトの打ち合わせをしていた。この春、部長に昇格した。喜んだのもつかの間。やることが

カエルが笑った|文=北阪昌人

「課長、オレ、正直、なんでさっき頭さげなきゃいけなかったか、わかんないです。納期の指定日時を間違えたのは、お得意先なんですよ」  部下の林がそう言った。  そんなことは、俺がいちばんわかってるよ、という言葉を飲み込み、 「軽く、一杯、行くか?」  と、林をガード下の居酒屋に誘った。  喧騒の店内。赤レンガの壁に囲まれた空間で気炎を吐いているのは、私たち同様、みんな、スーツを着たサラリーマンだった。 「お得意先のミスだとしてもだ、追い込んでどうする。追い詰めて何の得

雪解けの音|文=北阪昌人

「ゆかりさん、もう一軒、いいかな?」  先輩の新見令子さんは、そう言った。 「はい」と私は答える。  この春、私は大阪の支社に異動することになった。新見さんは、個人的に送別会を開いてくれた。一軒目は、懐石料理。二軒目に新見さんが連れていってくれたお店は、路地裏にあるビルの地下。抑えられた照明の素敵な雰囲気のバーだった。カウンターに並んで腰かける。  今回の人事は、まさに青天の霹靂。課長に昇格しての大阪転勤なので、同僚たちは栄転だとお祝いしてくれたけれど、私自身は、不安

風を切る二つの腕|文・絵=北阪昌人

 迷いは、晴れたはずだった。  でも、私の心は、目の前の青空のように、すっきりと澄み渡ってはいなかった。モノレールが、ゆっくり万博記念公園駅にすべりこむ。     モノレールを降りると、私はネクタイをはずした。  出張のついでに、どうしても見たいものがあった。それは、岡本太郎が創った太陽の塔。どうしてそんな気持ちになったのか。おそらく、唯一無二のオブジェを創作する「べらぼうな」芸術家に活を入れてほしかったのだろう。  私は今年で60歳。給料がかなり下がっても今の会社で

私と弟と雨晴海岸で|文=北阪昌人

 金曜日の夜の密かな楽しみは、我が家での晩酌。駅から真っすぐ延びる商店街のなじみの魚屋さんで、今が旬のほたてを買う。大好きな富山県高岡市の名酒がちょうど手に入ったので、今夜は特に心が浮き立つ。ネクタイを緩めて、自宅マンションを目指した。  私の心を表すかのように、殻付きのほたてが、ビニール袋の中で、陽気に音をたてる。 「ガラリ、ガラリ、ガラリ」  貝殻がこすれる音を聴いていたら、ふと、胸の奥がうずいた。記憶の入り江に、そっと釣り糸を垂れる。たどり着いたのは高岡市雨晴海岸

風で奏でる音色|文=北阪昌人

「天草にキリスト教が伝えられたのは、永禄9年、1566年のことです。島の人たちは、新しい宗教を温かく迎え入れ、信者も増えていきました」  大江天主堂近くの広場で説明する。私は旅行会社の添乗員。ここ天草に来るのは、何度目だろうか……。ツアーに参加してくださったお客様は、思い思いにスマホで写真を撮っている。  夏の陽射しは勢いをなくし、風に秋の香りが混じっている。毎回、来てくださるお客様が違うのだから、新鮮な気持ちで臨むように、そう部下に教えているのに、最近の私は、仕事にマン

鳴き砂は知っていた|文=北阪昌人

 潮の香りをほのかに感じる風が、私の髪を揺らした。懐かしい海岸線が見える。ここにやってくるのは、20年ぶりだ。  パンプスを脱ぐ。裸足になる。砂浜に足を踏み入れる。私は祈るように、すがるように、この海岸に来た。  どうしても、成功させなくてはいけないプロジェクト。私はそのリーダーとしての重責に押しつぶされそうだった。  父の仕事の都合で、小学3年生の時、京都府の北部にある京丹後市に引っ越した。  もともと引っ込み思案で、人見知り。クラスメートたちも大人しく無口な転校生

あふれる水の流れ|文=北阪昌人

「幼い頃過ごした場所を、ひとりで訪ねてみたいんだけど」  電話越しに僕が言うと、 「そう、いいんじゃない。行ってきなさいよ」と妻は明るく言った。  あっさり、同意してくれたが、心の内では、おそらく心配してくれているんだろうなと思った。  最近の僕の不安定な言動に、敏感な妻が気づかないはずはなかった。四十にして惑わずとはいつの時代の話だろう。僕は40代半ばにして、人生最大に惑っていた。  岡山で仕事を終えた僕は、鳥取に向かった。  圧倒的な緑の匂いに包まれる。鳥取県

河津桜とメジロ|文=北阪昌人

 緑の香りを、胸いっぱいに吸い込む。冬の姿は影を潜め、春の匂いが満ちていく。  私は川沿いを歩きながら、桜を愛でる。文豪、川端康成も愛したここ河津温泉郷の河津桜。深い桜色が風に揺れている。  今、私の胸がドキドキしているのは、40年ぶりの再会が待っているからだ。短大時代の同級生、池澤美奈子と会う。この地は、一緒に卒業旅行で訪れたところ。40年……美奈子はどんなふうに変わっているだろうか。そして、私の姿は彼女の目にどんなふうに映るだろうか。思いをめぐらせて天を仰ぐと、真っ青