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212 虚構では悪を描き切れない

悪いやつがいっぱい出てくるとしても

 フィクションとノンフィクションの大きな違いとしては、ノンフィクションは「悪」を悪のまま描けるけれど、フィクションではそうはいかない点だろう。
 こう書くと「逆じゃないか」と思われるかもしれないが、フィクションでは悪を描き切ることは困難なのだ。それは、登場する人たちすべてに言えることだけど、直接本文の中で説明しないとしても、フィクションに出てくる人たちにはちゃんと物語に登場する理由があり、しっかりとした背景があるからだ。さらに逆説的に言えば、こうした理由、意味、背景の判然としないものを虚構で描くことはとてつもなく困難だし、それを読む側も、とてつもなく困難となるだろう。
 むしろ虚構は現実に起きている不可解な現象を、納得しやすく整理し直してしまう側面がある。「なるほどな、これならわかる」となりがち。それもひとつのカタルシスであり、フィクションを読む楽しみでもある。
 たとえば、フォーサイスの「ジャッカルの日」に登場する殺し屋には、依頼を請けた仕事をやり切る以外になんの目的もなく、そのためには何でもする。極めて非情な人物として描かれているけれど、どう考えても、この殺し屋は「悪」ではない。いや、法的には悪であるけれど、人間としてはただ自分の仕事を成し遂げるだけの人である。悪いのは彼に殺しを依頼する人であるから、殺人マシーンとしての彼は悪を背負っていない。
 シリアルキラー系統の犯人も、残酷な犯行を繰り返すけれど、その人物に「悪」の概念が欠如していることが多く、彼の信じるなにか(神でも悪魔でもいいけど)に従っているだけで、自分で判断をしないことによる生きている実感を味わっていると解釈できてしまう。
 それに、フィクションではそれなりに犯人像を描くので、成長の過程における環境であるとか、他者の影響、逆恨み、憎しみ、精神的な成長を拒む理由などをそこはかとなくちりばめていくことになる。それがないと、読む側には何が何だかわからないからだ。
 その結果、「悪」が多くの人の心に残り、むしろヒーロー的な人気を得てしまうことさえ珍しくない。作中でもっとも憎むべき相手こそが、極めて人間的で、語りごたえがあって「おもしろい」となってしまう。
 この世に存在する「悪」の中には、そのように「悪」の背景や成長をうかがわせる「おもしろい」例もあるけれど、正直、なにがなんだかぜんぜんわからない「悪」もそれなりに多く、とてもおもしろがってはいられないのである。
 おもしろがれるということは、そこに虚構のいい面が反映されているからで、歌舞伎や浄瑠璃に登場するとんでもない逆ギレ人殺し犯みたいな悪人たちでさえ、おもしろく見えてしまうものなのだ。
 フィクションの楽しみとは、そうした倒錯的な楽しみも含めている。

わかりにくい事件の真相

 世の中にはわかりにくい事件が多い。戦争も含めると、どっちに正義があるのか判然としないばかりか、そもそもどっちが悪いのかさえ判然としないことがある。なんとなく悪いことをしてしまう、といった適当なことではなく、細かく見てもあらゆる段階で多くの人たちが決断を下した結果としての悪だとしても、本当に悪いのは誰か、そこに存在する悪の正体はなにか、判然としないことが多い。
 これが、私たちの周辺で悪がはびこっていたとしても、決定的な事象にぶつかるまで何も手を打てない理由のひとつでもあるだろう。さらに、最近起きている悪のパターン、誰が首謀者なのかわからず、組織もはっきりしないまま、ネットで募集した人たちに何かをやらせるタイプの犯罪は、もちろん犯罪なのですべて「悪」でありながら、決定的な「悪」の所在が不明なままとなりがちだ。こうなると、自分のところに入ってくる情報の元を辿ると「悪」でした、などということも起こり得る。
 昨今、「トクリュウ」(匿名・流動型犯罪グループ)と呼ばれる犯罪形式も跋扈している。誰がどの部分にどれだけ関わったのかわかりにくい。
 結局、長期にわたる精神鑑定、あるいは首謀者の判然としないままの実行犯のみの処罰が増えて、悪の根本が見えないまま終息していくことも珍しくない。こうした現実を虚構に持ってくるときには、どうしたって、それなりの肉付けをしてしまうので、わかりやすくはなるものの現実から離れてしまう可能性も同時に生じるだろう。
 ミステリでは、曖昧なまま終わらせることはできないが、ホラーなら可能だ。ホラーはそもそも、その現象がどうして起きているのか解明されなくてもいいからだ。因果を推測することはできても、そもそも超常現象なのでぶっ飛んでいるわけだから。
 この点では、いまの時代をむしろリアルに描けるのはホラーなのかもしれない、と思ったりもする。

描き始め。


  

 

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