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233 音と文字

聞えるときと聞えないとき

 だいたい耳について、これほどいろいろ考えた日々はかつてなかった。なぜなら、それまで自分は耳がいいと信じていたからだ。子どもの頃から耳コピで曲を覚えることができた。その能力はなんにも生かされないまま、いつしか衰えていったわけだけれど。
 それが突発性難聴によって、気づけばかなり能力は低下していることが判明した。そのちょっと前から耳鳴りには気づいていた。最初の異変はかなり前になるが、飛行機に乗ったあと三半規管がおかしくなってしまう。自覚がなくて、道路ですっころんで血だらけになった。歯にもダメージを受けた。脳の検査では異常はなかったので安心していたが、その後もめまいは突然やってくる。
 耳鼻科で検査をしたら、突発性難聴と言われた。左耳はかなりレベルは落ちているもののまだマシ。右耳は低音も高音もかなり能力は低下してしまっていた。めまいの薬も飲むようになった。これがないと、上を見ただけで、ふらふらしてしまう(電球を取り換えるときに気づいた)。
 音楽はいま日常に欠かせない。音源はSpotify。Bluetoothでスピーカーかヘッドホンに飛ばす。ヘッドホンならかなり低音域も聞き取れるけれど、外部の音まで注意は至らないのでちょっと危険。仕事場にはスピーカーを用意している。これが低音のブースターがついているので、比較的、聴きやすい。
 とはいえ、右耳はどうもパッとしない。注意をしていないと、日によってはかなり能力が低下していて、聞えていないときがある。妻と会話していて、それに気づく。妻も突発性難聴となり、左耳はほとんど聞えない。この聞えなさは私より重症で、左耳に話しかけてもほぼ聞えていない。だから、愛犬の散歩で連れ立って歩くとき、彼女の右側にいるようにしなければならない。こうすると、私は左耳はまだマシなので、お互いに便利である。
 その逆となると、聞えない同士で具合が悪い。

文字としての言葉

 こんなに聞えないときがあるようでは、とてもインタビューで人の話を聞くことはできない。最近、居酒屋で飲んだとき、すぐ近くにいる2人の会話でときどきわからないことがあり、それはすぐ横の席で二十人ぐらいの若者たちが派手に飲み会をやっていたこともあるけれど、やっぱり厳しいな、とわかった。
 かつて取材していたとき、文字起こしをする場合、1時間の取材なら2時間か3時間はかかる。文字起こしの専門家に頼んだ場合は、音源を聞きながらチェックすることになって、それだって1時間の音源なら2時間ぐらいはかかる。最近のAIによる文字起こしでも同じだ。どちらも、最終的な原稿に必要のないところまで起こしているので、それを削る作業も必要だからだ。削ったり、言い換えたりする。表現を変えることもある。同じ話を繰り返すこともあれば、パッと聞いたところ矛盾しているように聞える場合もあり、文字にして誤解ない表現にするのは、それなりの時間を要する。
 同じ表現が頻出する場合は、類語に置き換えたり、構文そのものを作り直す必要もある。一番おもしろいところをちゃんと浮き上がらせるためには、それなりの下地の作り方がある。そうしないと、のっぺりとした文字の羅列になってしまう。
 文字起こしをするときは、そういったことを最初から考えてやっているので、AIのようなただ文字化すればいい、ということとは違う。また文字起こしの専門家の行う議事録のようなタイプとも違う。以前、「文字起こしの原稿があれば、それも欲しい」と言われたことがあったが、断った。なぜなら、私はそういう文字起こしはしないからだ。
 音としての言葉と、文字としての言葉は違う。こればかりはどうしようもない。言文一致といっても、しゃべったことをそのまんま文字にしたところで、読みにくいだけである(もちろん、まれに、そのまま文字にしたい見事な話術の名人もいる)。一例としてあげれば、音としての言葉には「間」が巧みに使われている。「まあ、そうですね」といった言葉でも、この「、」のところをどのぐらい時間を空けるかでニュアンスは違う。聞いている側はそれを感じることができる。それを文字で表現するには、なにか別のことをしなければならない。「まあ」と彼は目をテーブルに落として「そうですね」と小さな声で続けた。とかなんとか、しないと伝わらない。
 耳の問題は、今度は目に及んできた。老眼である。それも今年に入ってさらに度が進んだ気がする。目が疲れるのだ。「スマホばっかり見ているからよ」と妻に言われるけれど。そんなにガッツリと見ていることはないはずだけど。目もダメになってきたら……。
 なんとか誤魔化しながら少しでも衰えていないフリをし続けたい。

ほんのちょっと変化。

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