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201 音楽と意味と仕事

集中力を増す音楽

 2019年からSpotifyを利用している。そこには、自分用のプレイリストをいくつか作っている。

 たとえば、椎名林檎と東京事変のプレイリストは常に曲を変更し続けているが、8時間(プラス1、2分)に収めるようにしている。8時間は、自分にとって仕事をしている時に使いやすかったからだ。
 なにも考えずにPCに向かうとき、とりあえず、このプレイリストを再生する。そして、ふと「これじゃないな」と思った時には、曲を入れ換える。新曲が出るなどのニュースに伴って多少の変更をすることはある。ライブがあるときはセットリストに近づけることもある。遊びである。
 それでいながら、常に、新たな人たちの曲も聴く。グラミー賞のときは、そのリストがSpotifyにあるので、ざっと聴き流して気に入ったものをさらに聴く。そのほか、Spotifyのお知らせに従って新譜を聴く。ジャンルはあまり拘らない。

言葉ではなく「音」で

 たとえば、スティーリー・ダンとかアース・ウィンド・アンド・ファイアー、アレサ・フランクリンのような「歌もの」で飽きないタイプのアーティストもいれば、マイルス・デイビス、ハービー・ハンコック、ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカーなどなど、インストルメンタルで飽きない人たちもいる。
 かつては、レコード、そしてCDで聴いていた曲が、いまは配信で手軽に聴けるのでとてもありがたい。
 いつもの音楽を聴いているだけで問題なくスムーズな状況でいられる日もあれば、むしろ妙に苛立ってしまうときもある。そういう時こそ、レコメンドされてくるあまり耳にしないアーティストをあえて聴く。ぜんぜんダメだ、ということはあまりなくて、洋楽だけではなく日本のアーティストも聴く。
 しかし、いずれにせよ、歌詞を気にしない方なので、歌詞重視の曲はあまり馴染まない。ひとつの音符にひとつの語のような、極めて丁寧な作品はむしろ避ける。ラップでもすべての語彙が耳に入ってきて、脳の言語の部分に入り込むのは避けたいけれど、「音」として入ってくるものは構わない。
 もっとも新しいアーティスト、新しい曲に触れたいときは、あまり仕事には集中できていない。遊んでしまっている。
 ポッドキャストも聴くときはあるのだが、やっぱりこれは仕事中はムリだ。言葉がどんどん脳に溜まっていくのは困るのである。
 それは言葉が語彙として入ってくると、意味を持ちはじめるので、意味が気になってきてしまうからかもしれない。『センスの哲学』(千葉雅也著)を読んでいて、そんな気がした。

意味を考えると止まる

 それでも、ふと「意味」に気づいてしまうことがある。
 私は音楽は好きだけれど、音楽やアーティストについて語りたいとは思わない。私生活も別に興味はない。少しはエピソードに触れて感心することもあるものの、自分から強く求めることはない。そしてもちろん、音楽に「意味」を求めたことがない。
 そんなこと考えはじめたら、私としては仕事をしながら聴くなんてことはできない。
 意味を気にし始めたらむしろ音楽は諦める。無音でいく。
 作業によっては、テレビドラマやアメトーークを見ながらでもやれることがある。確定申告のときは、録画した番組を流しながらやっていた。そうでもしないと、作業が重くなりすぎる。
 たくさんのアーティストの人たちには申し訳ないけれど、私は音楽をそんな風に楽しんでいる。なにかをするときの環境づくりなのだ。
 もちろん若い頃はライブも行ったし新譜を手に入れて聴き込んだこともある。だけど、それもある時期から変化する。音に向き合って真剣に聴くことはほとんどなくなった。
 おまけに昨年には突発性難聴となって、耳鳴りもあるし、右耳はかなり音が聞えにくく、低音も感じにくくなっている。そもそもモスキート音ではないが加齢によって高音域も認識しづらくなっている。ちゃんと聴けていないのである。
 楽しめているうちは、音楽を聴き続けたい。わがままな聴き方だけど。

まだ描き始めたところ


 


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