228 一貫性はあった方がいいのか?
人は「変われ」と言い、「変わるな」と言う
私はある人からは「頑固」と言われてしまう。どうも、いつも同じ反応をしてしまうらしい。それは一貫性がある、とも言える。ところが、「変わらなきゃだめ」と言う人もいる。頑固じゃなくなれば、「変わった」と言えるだろうか。するとたぶん「一貫性がない」と言われないだろうか。
20代で出版関係に飛び込んで(最初は業界紙だったが)、40年ぐらいやってきたことは、編集とライターだった。ほかのことも少しやったが、あくまで数パーセントの世界だ。その意味で、仕事としては一貫性があった。
ただ、その中身はかなり違う。輸送、物流、流通といった分野から経済、金融、投資を経て、税務、法律、人事へと専門性は流転してきた。制作物も新聞、雑誌、電子書籍と変化した。コンビニ専売の本もあったし、手の平にのる小さな写真集もあった。
変わったといえば変わったし、変わっていないといえば変わっていない。
それがこのnoteを書きはじめた頃から、遂に、これまでとは違う世界が大きくなっていった。これまでやってきたことが縮小したから相対的に、数パーセントの世界がほぼすべてになったのだ。
つまり小説を書き、このnoteを書き、アフィリエイトをし、お試しをし、絵を描きはじめたわけだ。
残念ながらこの新たな世界は、すべて自分中心に創り出したものなので、いまは収益としては大したことがなく、このままでは「無職」と大して変わりがない。だからといって、いまの気持ちとしては、元には戻れない。それは戻れない理由(健康上、人生として)があるからだ。とてもきちんとスケジュールのある仕事を引き受けられる状態ではないのだから、しょうがない。日々の暮らしで精一杯なのである。
その意味では、私は変わった。頑固のまま変わったのである。
一貫性でさえも結果論
もちろん「大きいことを成し遂げた人は一貫性がある」と言ってしまえばそれまでで、たぶん、それは結果論だろう。大きいことを成し遂げた人を観察すると、「三つ子の魂百まで」みたいな部分がどうしたってクローズアップされていく。ただ、よーく観察するとそんなことはなく、さまざまなトライアンドエラーを繰り返している。変わりたいと思っても、変われなかったところがその人の強みとして、最終的に大きな成果に結びついたから「一貫性がある」と言われるのではないか。
つまり、自ら一貫性を求めるのは大して意味のないことで、むしろトライアンドエラーの方が大事ではないだろうか。
エラーばっかりしている者としては、これは少々きついけれど、やっぱり結果論だなあと感じる。
私はこうして人生の大半を無為に過ごしてきて、世間に自慢できるほどのこともしていないのだが、じゃあ、つまらなかったかと言えばまったく反対で、「いつもおもしろかった」と言えてしまう。自分でおもしろくしてきたのだから、その意味では頑固だった。つまらないことをすると、体の具合が悪くなる性質もあいまって、なんとしてでもおもしろい方向へと舵を取ってきた。自分を曲げないのではなく、おもしろい方向へ曲げてきた。その「おもしろい」は、人によっておもしろくないかもしれないので、そこはやっぱり独自のものと言えなくもない。
おもしろいことをして、おもしろい本を読み、おもしろいドラマを見、おもしろい映画を見、おもしろい音楽を聴く。すべてそうなら、私としては満足なので、少しでもそういう方へ行きたい。
世の中がつまらなく見えるときこそ、そう感じてしまうのだった。
それはもう、へそ曲がりとしての頑固さといってもいい。
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