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238 非日常を好む

愛犬は祭りが嫌い

 私の住まいは、東京のいわゆる下町で、といっても東京の下町は東西南北いろいろあるけれど、その中のひとつ。そしてこの時期、祭りの季節である。今日も朝からいい天気に恵まれて、町の空気はいつもと違う。午後になると子どもたちの神輿が出て、大きな「ワッショイ!」が響き渡る。
 この町に住むようになって早くも20年を過ぎている。実は引っ越してきた当初は周辺で小中学校の統廃合が進み、子どもの神輿や山車が人数不足で厳しくなり、見ればほぼ大人がサポートして少数の子どもたちにやらせていた。大人の担ぐ神輿も「担ぎ手を募集」などといったことが起きていて、氏子だけでは賄えない事態になっていった。
 それが、ある時から、マンション建設ラッシュがはじまった。いや、そもそも私がここに越してきたのはちょうどいいマンションがあったからなのだから、すでにマンション建設ラッシュは始まっていたのだろう。
 下町でお馴染みの長屋はどんどん減っていく。二階建ての木造アパートはほぼ姿を消した。商店も何戸かまとめて潰して小綺麗なマンションになっていった。お惣菜のおいしかった地元スーパーは消え、ナショナルブランドのスーパーが進出。1軒しかなかったコンビニは、あっという間に5軒に増加。
 新しい住人たちの増加によって、この数年、祭りの活気も出てきた。
 しかし、我が家の愛犬は、これがダメなのだ。太鼓のドンドン、かけ声に脅える。ハーハーと舌を出してうろつく。抱っこしてくれとせがむ。反応としては雷とほぼ同じである。
 だいたい、犬は非日常を好まない。毎日、同じ時間に起きて、同じ時間に同じ食べ物を食べ、同じ時間に散歩して、同じ時間に眠りたい。犬と暮らすと、ある意味、人間も規則正しくなってくるのはいいのだが、平日も休日もなくなってしまう。
 犬は非日常を嫌うのに、飼い主は非日常が好きだ。そのギャップを犬は、とりあえず飼い主と一緒にいれば大丈夫、といった絆で補っているように見える。まあ、それでも犬も飼い方次第な面もあるし、それぞれ個性もあることだから、祭り好きな犬もいることだろう。
 ただ、私の愛犬は祭りは嫌いなのである。

非日常がないとつまらない

 非日常は、人間にとっては一種のメリハリ、ハレとケである。日常だけでは生きている実感に乏しくなってしまう。だから非日常を求める。それは、祭りもそうだが、旅や映画やドライブや、とにかく滅多にやらないことをすることで満たされる。
 物書きの日常は、なにかを書いていたり、資料を読んだり、芸術に触れたりすることで、そもそもそこかしこに非日常の尻尾のようなものが見え隠れしている。私は、1年だけ大手企業で営業をやったが、そこでは、日常と非日常はきっぱり分かれていて、要するに同じゴルフでも接待は日常、友達と行けば非日常。夏休みに旅をする、冬はスキーをする、といった非日常を予めパッケージにしているような印象を受けた。
 たかだか1年しか勤めていないから、あくまで、私の受けた印象にすぎないけど。
 そして出版関係へ転職してからは、日常はほぼ毎日が非日常になっていった。とうてい普通なら会えない人に会う。どうしても会いたい人とどうやったら会えるか企画する。どうしても行きたいところにどうやったら行けるか企画する。そんな日々がずっと続いたのだ。30代半ばまで、そういうほぼ毎日が非日常をやってきて、そこからフリーランスになった。
 フリーになることそのものが、すでに非日常である。明日をも知れぬ日々だ。仕事がなくなれば飢える。飢えると仕事ができなくなる。そんな不安はかなり大きいけれど、なんとか大勢の人に助けられて、やってきた。
 振り返ると、そんなことばかりなので、いまは本当に日常の割合は、かつてないほど大きくなっている。その一因は愛犬にある。犬の生活だ。この日常を大事にする生き物と暮らすことで、自分の日常も増えていく。健康的にはいいような気もする。
 と同時に、こうしてなにかを書くこと、本を読んだり、映画を見ることは、私にとっての非日常になっている。そもそも非日常的生活が長かったこともあって、わずかな非日常だけで十分に満足できてしまう体質になっている。変な言い方になるかもしれないが、要するに日常の中で自ら非日常を生み出している。そこに埋没できるわずかな時間によって、私の非日常生活は満たされる。
 もちろん、それもいずれ限界はやってくるかもしれない。過去の非日常の賞味期限のようなものはあるだろう。色褪せた写真のようなものだ。そうなったら、旅に出なければならないかもしれない。いや、そんな体力も気力も、その頃にはなくなっているかもしれないけれど。

難しいところ。


 

 

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