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231 そんなの本当の○○じゃない

本物と偽物しかないのか?

 たとえば、私はXでのみやりとりしている人たちがいる。直接会ったことはない。メッセージもまずやり取りしない。相手がどんな人なのかは、正直わからない。それでもその人のXを見ているので、その人がなにを外に対して打ち出しているのかはだいたい想像がつく。その打ち出された数少ない情報に、こちらは少し反応する。反応するとお返しに反応してくれることがある。それは、たいがいはいわば「義理」である。してくれたら、してあげましょう、と誰かが決めたわけではないのだが、「いいね」ぐらいは押しておこうか、いやリポストしようか、ブックマークしておこうか、などと考えながら反応する。
 だから、私はXでこうしたやりとりをしている相手を、友人のように感じている。ああ、なんか、そう書くと気持ち悪いね。確かにね。友達のわけないから。でも、知り合いでもないしね。知り合いなのかな。
 昔から「そんなの本当の○○じゃない!」と叫ぶような場面がドラマにはあるけれど、この世は、本物と偽物しかないのだろうか?
 昔は、本物の友情しかなかった、本物の愛情しかなかった、などと言い切れる人はいないだろう。
 ネット以前の、おおよそだが1990年代以前の日常にも、本物と偽物の中間のような人間関係はたくさんあった。そもそも「ご近所」がそうだ。たまたま引っ越してきたその土地で、コミュニティに加わった以上は「ご近所」としての義務を果たさなければならない(毎朝、家の前を掃除するとか、ゴミの出し方とか、回覧板とか、町会費を集めるとか)。
 とても仲の良いご近所だったとしても、いろいろな事情で突然、引っ越してどこかへ行ってしまう。それきりになる。ごく希に、たとえば「探偵!ナイトスクープ」にでも依頼して「あのときのあの人を探して」みたいなことで再会することはあるかもしれない。でも、再会しないことも多いだろう。
 ご近所の同窓会などはあまり聞いたことがない。引っ越したあとも、定期的に前のつながりで集まることがあるとすれば、それは「祭り」だろう。いまは住むところは違うが、昔の仲間に会える祭りに出掛ける人はいるかもしれない。「本物のご近所だなあ」と思うことはないにせよ。

本当じゃなくてもぜんぜんいい

 友達、友情を大事にする人も多いし、ストーリーとしては友を得て、離別があり、再会があるかないか、といった話もとても多い。朝ドラ「虎と翼」では4月放送時に生まれた友情の輪が5月放送でどんどん崩れていく。朝ドラの常套手段として、ここで消えた人が中盤や後半に重要な役割として再登場、といったことはあるだろう。でも、現実にはそういうことは、まずないのである。
 私の妻は東京で働いていたときに生まれた仲間と、いまも時折、連絡を取っている。まだ元の職場にいる人もわずかにいたが、さすがに年齢的にもそろそろ職場からは離れているだろう。みなバラバラである。その仲間たちはたまに会うこともあるようだ。また、選挙のときに推奨する候補者のことを連絡してくる人もわずかながらいる。そういう活動をしているからだが、たまに存在するそのように近況を確認し続ける人によって、情報はアップデートされていく。
 では、こうしたつながりは本物と認定していいだろうか? ある意味では本物だし、ある意味ではそれほど本物でもない。恐らく、人間関係の多くは、ある瞬間「本物だ」と思えるときもあるとはいえ、時間の経過によって変化してしまう。
「そんなの本当の○○じゃない!」としても、私はそれがいいのだと思っている。本物だとか偽物だとか、仮のものだったり、まやかしだったりしてもいい。だから、Xだけでそこはかとなくお互いを認識し合っている関係だって、それはある場面では本物だし、同時に偽物だろう。
 NHKのドラマで桐野夏生原作、長田育恵脚本の「燕は戻ってこない」を2話まで見たのだが、ここでは代理母の話を取り上げている。おカネのために代理母になってはいけないのか。代理母に生ませた子は我が子として育てられるのか。倫理観以前に私たちの心に横たわるのは「そんなの本当の○○じゃない!」であろう。本物でなければならないのか。偽物はすべて悪であり駆逐されるべきなのだろうか。そんな純粋性はこの世に必要だろうか。少なくとも100年ぐらいしか生きられない人間の一生にとっては、どうだろう。

外堀を埋めた。


 
 


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