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70 小説「ライフタイム」 6 雑誌

自分のやり方

 大したスキルもなく飛び込んだ業界紙で、あとから来た新卒の記者の方がよっぽど詳しく(文学部、政経学部などの出身者だ)、とりあえず先輩のマネをして仕事を覚えていたのであるが、もちろん、『編集入門』とか『記事の書き方』とか『時事通信記者ハンドブック』などなど、多数の本を買い漁ってなんとか落ちこぼれないように必死だった。
 そんなある日、まこさん、つまり編集長の藤枝眞子の取材に同行することになった。営業課長であり、事実上、営業のトップである田所啓祐も一緒だった。ぼくはカメラ担当で、記事広告となる経営者へのインタビュー記事を作成することになる。インタビュアーはまこさんだ。
 編集長によるインタビューは営業企画でも人気の、いわば定番商品で、月に二回掲載され、営業の田所によれば「この企画だけは順番待ちなんだよ」とのことだった。ほかの営業特集や記事広告は、少ない営業担当者たちが必死に駆け回って獲得するのだが、この企画だけ、先々まで決まっている。
 通常はベテランの記者が編集長に同行するか、あるいは副編の梅宮が同行するのに、なぜか誰もスケジュールが合わず、消去法でぼくになった。
「しっかりやれよ」とまこさんに背中をどやしつけられた。
 ニコンの一眼レフで、大型のストロボにカメラを取り付けるスタイル。失敗を防ぐためシャッター速度優先で撮影する。それもできるだけ遅くする。通常百のところを六十ぐらいにする。そのせいで失敗するのだが、しっかり手持ちでブレないようにする。フィルムはモノクロ。フジフィルムのネオパン400だったと思う。
 ソニーのテレコ(テープレコーダー)をセットしてから、インタビューが始まる。最初のうちはメモを取りつつ後ろの方に控え、中盤ぐらいから写真を撮り始める。相手が少しでも気持ちがほぐれてからの方が表情が出るからだ。さらにインタビュー終わりには写真用に雑談をしてもらう。
 すべて終わり、写真は現像しなければ出来はわからないが、音声は録音されていたかその場で確認する。
 まこさんが「いつも、そうやってるの?」と聞いてきた。「ええ、まあ」
「先輩のマネばっかりしているって誰かが言っていたからさ。どんどん自分の頭で考えてやらないとダメだよ」
「はあ」
 では、どうやればいいのかは、もちろん編集長は言わない。そこは自分で考えるのだ。まだそこまで頭が回らなかったことが恥ずかしかった。確かに、みな、それぞれ工夫しているのだから。
「原稿は朝イチでね」
 こういう場合は記憶とメモだけでは書けないが、全体の構成は記憶だけでやれる。細部の言い回しを確認するためにテープを聴けば、徹夜はしなくて済むだろう。

どう思う?

 翌朝、プリントアウトした原稿をデスクに置いておき、いずれまこさんが見て、なにか言ってくるだろうとほかの仕事をしていると、昼前になってふと視線を感じて振り返ると、すぐ後ろにまこさんが立っていた。手にぼくの原稿がある。
「へえ、そうやって書くのか」とワープロで書くことを珍しがる。
「でさ」と本題に入る。「こことここは、いらないけど、丸つけたところはもう少し詳しくしてくんない? ほかの資料から取っていいから」
 原稿のデータを読み出して、カットすべきところをバッサリ削り、取材時に先方から貰った資料で、相手が言った言葉を補ってより詳しく書き込む。インタビュー時にはそんなことは社長の口から出て来なかったものの、これはその会社のPRなので、下に入る広告との連動が大事なのだ。記事は「だ、である」調なのに、この営業用は「です、ます」であり、どちらかといえばぼくはその方が書きやすく感じていた。
 仕上げてデスクに再提出すると、「おーい、けいちゃん、ちょっと来てよ」とまこさんが大声で営業の田所課長を呼ぶ。そして、書き直した原稿を彼に読ませる。
 いつも二日酔いのような顔をしている田所は、ぼくの前でそれをざっと読んでいく。
「どう思う?」
「うん、おもしれえ」
「だよね」
 そして、しばらくぼくはその企画の専属のようになった。まこさんと仕事をするのは、緊張しかない。まして経営トップのインタビューで失敗は許されない。正直、もっと気楽な業務がいいのだが。

来訪者

 結果的に、そうした記事がぼくのフィールドになっていき、「おまえは新聞記事に向いていない」と判断されて、仕事は企画ものや雑誌へと傾斜していった。ちょうど雑誌専属の編集をしていたクマイ先輩が、まったく会社に出て来なくなってしまって、定期刊行物なだけに対応に追われ、それをほぼすべて引き受けたのだった。
「クマイだってひとりで雑誌作ってたんだから、おまえなら出来るよ」とまこさんに言われてしまう。まこさんが「出来る」と言ったら、社長や専務たちも反対しない。そんな社風だった。もちろん、ミタムラ専務は雑誌や年刊、単行本の責任者でもあったので「大丈夫か?」とは言ったけれど。
 こうしてぼくはいつしか、新聞記者ではなく、雑誌編集者になろうとしていた。ただまこさんとの営業企画は続いていたし、人の足りないときは取材もして記事も書いたが、それはほぼ誰がやってもいいような仕事になり、メインは雑誌になった。
 企画、構成を考え、特集記事は社内の記者に頼むものの、ほかに外部へ原稿依頼をしなければならず、専務に聞きながら人選してぼくが交渉する。業界向けの専門雑誌なので、業界に関するデータ類を集めて巻末に掲載するのだが、その作業もする。依頼、原稿の催促、原稿のチェック、レイアウト、入稿、校正まで全部やる。校正はまこさんが指名した記者にも手伝って貰ったが。発行日までにちゃんと雑誌が出来上がってくるのが、最初は奇跡のようだった。
 しかし、あまりにも多忙で夢中になっていたからだろう。あっと言う間に一年が過ぎてしまった。自分の手がけた雑誌が十二号揃って、二周目に入った頃だった。
 「お会いしたい」と電話があった。まさかの、「蓄財時報」からだった。
 (つづく)
──この記事はフィクションです──

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