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234 説教ですか? 意味あります?

説教の分析

 人は立場によるけれど、ある日突然、説教をしたくなるものだ。
 ここで言う説教は、宗教の教義を伝えるものではなく、なにかをやらかした、あるいはなにもやらかさない相手に対して、先輩、上司、教師、親、兄、姉、コーチなど社会的に指導しなければならないとされる立場にある者が、「どうすればやらかさないですむか」あるいは「どうすればやらかすようになれるか」を伝えようとするときに発生する。
 通常、この手の説教は長い。言う方は「この時」とばかりに最大限盛り込みたい。聞く側は言葉のつぶてを無防備で受け続けるのでどうしたって長く感じる。終わりが見えない。終わらせ方がわからない。だから、「はいはい」とか「わかりましたよ」とか「うっせーなー」といった捨てゼリフによって中断されたところで、通常は終わる。
 お互いに終わり方がわからない以上、捨てゼリフによる強制終了は、いたしかたない面もある。これがケンカであればその後は「ノーサイドにしよう」と言えるケースもあるだろうけれど、説教の場合はそれがない。宗教で生まれた言葉ながらも、救いはないのである。
 説教後、された側はずっと「ふざけんなよ」と心にわだかまりが残る。説教した側は立場にもよるが、「いずれリカバーしてやろう」といった心境から「あいつはダメ人間だから二度と使わない」といった毛嫌いまで、さまざまな余韻となるだろう。
 ごくまれに、「説教してくれて、本当によかった。これで私もこれからちゃんとやっていける」といった感想を持つこともあるだろう。残念ながら、それはレアケースである。
 説教された側は根に持つ。しかも、多くの場合、いずれ「ブーメラン効果」によって、説教をした側になんらかの突発的なアクシデントが発生し「ざまあみろ」と言われるような事態がやってくる。それがもし起こらないとしても、長期的に見れば加齢により現場からいなくなる、離婚する、病気になる、あるいはハゲる。
「ざまあみろ」と大人げなく言いたくもなるだろう。しかし、要注意。そう思った時、いつの間にか、説教される側から、説教する側になってしまっているのだ!

誰も得しない

 こう考えていくと、説教はしても、されても、なんの得にもならないことがわかる。
「だけど、一言、言いたいじゃないですか」。まあ、そうですよね。なにか言いたいから説教になるわけだから。説教される側は1ミリも「その一言をいただきたい」とは思っていない。
「なんか言われそうだな」とか「なんか言われるんじゃない?」と予感を抱えつつ、それがないことを祈っているのである。
 確かに、どこかに「説教されたい」「叱ってほしい」「小言でもいいから聞きたい」と願っている人はいる。ところが、説教したい側は、そういう人にしたいのではなく、聞く耳を持たない人にこそしたいのである。
 馬耳東風、馬の耳に念仏だとしても、その馬にこそ、伝えたい。だからチャンスがやってきたときは大いに盛り上がってしまう。理性を失い、感情的になる人もいる。理路整然と話すとしても、独演会のようになる。
 説教も話芸である。きちんと技術を磨いている説教名人もきっとどこかにいることだろう。そういう説教なら「聞いてみたい」と思う人がいても不思議ではない。それなのに、一度も練習したことがなく、話芸のなんたるかも知らないくせに、突然「ちょっと聞けよ」といきなり独演会をはじめるのである。無謀すぎる。
 説教したくなったときは、要注意である。一度、原稿に書き起こしてみる。手紙のように書いてみる。結婚式で読み上げる親へのメッセージを練習するときのように、自分ひとりだけのときに書いたものを読み上げてみる。そこで終わらせることだ。その原稿をメールやLINEで送るのも控えた方がいい。相手に証拠を握られるからだ。下手をすればパワハラの動かぬ証拠となる。相手の思う壷だ。
 説教したくなったときこそ、「次はがんばれよ」ぐらいで終わらせるのが、ベターなのではないだろうか。もっとも励ましでさえも、場合によってはパワハラになるので……。

少しずつ試している。


 

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