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59 小説「ライフタイム」 5 空席

あの人

 何度目かのビル前通過をしようと、公園から路地に入ったとき、ちょうどフジワラが出てきた。妙に気取った軽やかなステップだ。まだ夫人は到着していない。逃げられてしまうかもしれない。声をかけようかと迷っていたら、笑い声がして、ビルからもうひとり、現れた。女性だ。すでに夫人は来ていたのか。
「フジワラさん」とぼくは声をかけていた。
 楽しげに見えた彼らがギョッとしたように振り向いた。
 しまった、と思ったが遅かった。女性は夫人ではない。
 怪訝そうにこちらを睨むフジワラに向かって、ぼくはキャップを脱いで、もじゃもじゃ頭を見せ、あばただらけの顔を剥き出しにした。子門真人に似ているとからかわれることにはすっかり飽き飽きしていたが、恐らく一度見れば忘れない顔だと思う。
 フジワラはぼくが誰かわかったし、横の女性も気付いた。
 そこにいたのは、カドクラさんだった。総務経理のパート勤務。実はすでに離婚している女性。
「ふー」と大きなため息が聞えた。それは、二人の向こうに現れた、フジワラ夫人だった。タクシーを使ったのか、少なくとも駆けずり回って来たような様子はなく、とても冷静で、いや冷たすぎるほど冷たく、ぼくにまでその絶対零度の空気が到達したような気がした。
「まいったな」とフジワラは情けない顔をした。押し出しの強い顎髭さえも、こういう場面ではむしろ虚飾に見えた。
「わたしが悪いんです」とカドクラさんが叫ぶ。「全部、わたしが悪いんです!」
 だが、泣き出したりはしない。ああ、彼女は立派な大人の女性なんだな、とぼくは感じた。この程度の修羅場で相手に弱さで立ち向かうようなことはしないんだ。
 家族の問題ですから、とフジワラ夫人がぼくに告げて、なんだかすごく心配な状況ではあったが、部外者なのでその場を離れた。
 空腹で腹が鳴った。

空席

 ゴールデンウィークが終わり、職場に以前と変わらない活気が戻ってきたが、総務経理のイスは、ひとつ空席のままだった。
「昼、どうする」
 総務経理のカワムラがぼくを誘いに来たので、一緒に会社を出て、近くの店にでも行こうかと思ったのに、彼は「つばめグリルへ行こうぜ」と銀座通りまで歩いていく。「いっぱいだったら、アサヒビアホール」。前者ならハンバーグ。後者ならスタミナ焼きだろう。
 あまり待つことなくつばめグリルに入れたので、ハンブルグステーキを頼む。ここではハンバーグとは呼ばない。
 天板の上でジュージュー焼けたハンバーグ。トマトを丸ごと一つ使ったサラダ。
「彼女、別に辞めること、なかったのにな」と彼は残念そうだ。フジワラもフジワラ夫人もすでにこの会社を辞めた人物であり、そこで起きた不倫騒動に会社はなんの関心もない。
「いやしかし、あいつ一年ぐらいしかいなかったのに、いつカドクラさんと知り合ったんだろう」と彼も不思議そうだった。
 いずれにせよ、ぼくと彼がここに入る前の話であるから、知りようがない。
「ああ、なんか、ちょっと変なところ、あるなとは思ったんだけど」と彼は言い出す。ぼくはてっきり、カワムラは彼女にちょっかいを出しているに違いないと感じていたのだが、そのことは聞かないことにした。もし、彼がなんとかしようとしたとしても、思い切りフラれているのは明らかだから。
「ずっと、彼女の家にいたなんて、ビックリだよ。彼女、普通にしてたからな。二ヵ月だぜ、二ヵ月も。女って怖いな」
 ぼくはまだ、この頃は大した恋愛もしていなかったので、同期とはいえ人生では先輩であるカワムラが結婚に焦っている心情までは、正直他人事でしか見ていなかった。カワムラは四コマ漫画によく出てくるサラリーマンのようなキャラに見えた。四コマ目は「トホホ」となるのだ。
 そして、それは恐らくぼくも同類である。だからカワムラはぼくに声をかけてくれるのだ。
「そんなことより、阪神、連敗してますけど」とぼくは話を変えた。カワムラは阪神タイガースのファンで、四月は首位にあり、バースは月間MVPだったのに、ゴールデンウィークの間に横浜大洋や中日相手に連敗して三位に転落していたのだ。
「これからだよ、これから。そうだ、神宮の券が取れそうだから、見に行かないか?」
「ぼくなんかでいいんですか」
「なに言ってるんだよ、隠れ阪神ファンのクセして」
 いやいや、別に隠れているわけではない。熱狂的なファンではない、というだけのことなのだが。
「いいですよ。仕事のスケジュールしだいですけど」
「おう、行こうぜ、行こう行こう」
 フジワラからはそれきり連絡はなかった。ウワサもぼくの耳には入って来なかった。
 この年、阪神タイガースは優勝し日本一になった。また、四月頃から豊田商事による被害総額二千億円規模の詐欺事件が問題になっていたが、六月には豊田商事会長刺殺事件が発生した。恐らく、フジワラの関与していた雑誌も、似たような危ないことをしていたのではないか、と思うものの、その後ぼくの人生と重なることはないと思われたのだが……。それはまた別の話である。
 (つづく)
──この記事はフィクションです──

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