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56 小説「ライフタイム」 2 消滅

その女性

 キャビネサイズで紙焼きした六枚の写真に、トレーシングペーパーをセロハンテープで貼りつけて、定規をあてて柔らかな鉛筆でトリミングの指示を書く。
 その作業はどちらかといえば好きだった。あまり深く考えなくていい。この段階になっているということは、原稿はもう揃っている。レイアウト用紙に数えた行数に合わせて文字を流し込む部分を指定してあり、写真を入れる場所も決まっている。その写真スペースにトレーシングペーパーをあてて、タテヨコの比率が合うようにトリミングする。
 新聞の編集をしている連中は、印刷をするスポーツ紙の工場へ出張しているから、オフィスはぼくと、総務経理の四人しかいない。
 八丁堀にあるスポーツ新聞の印刷所で、この会社の業界紙も印刷をしていた。大型の輪転機にかければ10分ほどで刷り上がってしまう。ほかにもいくつかの業界紙がそこで印刷をしていて、何度かぼくも行ったのだが、そこは雑然としたまさに「工場」で、落ち着いてなにかを考えられる場所ではなかった。
 当時は、文選と呼ばれて、原稿を見ながら活字を拾ってくれる職人がいて、文字の揃った記事からゲラを出して校正し、完成させていく。さらに工場に貼り付いている編集者が新聞の体裁にレイアウトし、それを職人に頼んで組んでもらう。
 なにをするにしても、すべての工程に人の眼と手が必要で、複雑な作業ののちに新聞は印刷されていった。
 ぼくは、この頃は新聞専任ではなく、「特集班」と呼ばれる何でも屋グループに属していて、記者が足りないときや、それほど重要ではない会見の取材をして記事を書く一方、新聞の営業特集や雑誌の編集をしていた。
 この日は雑誌の編集をしていた。工場へ行かなくていいのでホッとしていた。
「お客様です」と、総務のカドクラさんがわざわざぼくの机の横まで来てくれた。微かにレモンティーの香りが漂う。名刺が置かれる。知らない名前だが、知っている社名だった。
 顔を上げると、入り口近くのカウンターの前に男女が立っていた。ぼくの方に軽く頭を下げてきた。
「はい」
 応接室に通してもらった。
 カドクラさんは、結婚して子どもがいて、この会社へは日中のある時間帯のみ勤務している。総務経理部にいるぼくと同期のカワムラによると、「離婚しているらしいよ。だけどそれは内緒。独身のやつがちょっかい出すといけないらしい」とぼくに昼飯のときに、ボソッと言った。
 独身者の多い職場で、カワムラもぼくより年齢は三歳ぐらい上なのだが独身だった。中途採用組で、一年もっているのは、ぼくとカワムラだけだった。
 応接室はヒンヤリしていた。ソファは柔らかすぎるので、背もたれを使うとふんぞり返ってしまう。ちょこんと尻を落としておくだけにする。
 通された男女のうち、男は、フジワラの会社の人だと名刺でわかる。
「こちらは、フジワラさんの奥さんです」と彼が紹介してくれた。
 美しい女性で、カドクラさんは確か二十八歳と伝わっていたので、ほぼ同じぐらいの年齢に見えた。ぼくの三つか四つ上だろうか。
「フジワラさんの行方がわからなくなりまして」と男は切り出した。

ミタムラ専務

 どうやら、話の内容からすると、ぼくはフジワラの失踪直前に会っていた人物らしかった。それでも、彼らに話せることはとても少なかった。酔っていた。内容のない話をした。少なくとも、内容はないだろうと当時は思っているような話だった。だからほとんど覚えていない。
「始発が動く時間になったので、新橋駅で別れました。フジワラさんは風呂屋へ行くようなことを言っていたんですけど」
 銀座にも銭湯があった。ぼくも何度か利用している。
 二人は、ぼくからいい情報を得られなかったので、肩を落として帰っていった。
 いまにも壊れそうな小さなエレベーターで帰っていく二人を見送ると、オフィスの入り口に背の高いミタムラ専務が立っていた。
「ちょっと」と彼に呼び止められ、再び応接室に戻ることになった。
「いまの、フジワラの奥さんだろ」と彼が言う。
「ご存知だったんですか?」
「フジワラは一年だけ、うちにいたことがある」
「え? そうだったんですか」
「それに、君は、彼の弟さんによく似ている」
「どういうことですか?」
「亡くしているんだ、弟さんを」
 もしそうだとすれば、フジワラがぼくに目をつけたのは偶然ではなかったことになる。
 これまでわずかなやり取りしかしていないものの、フジワラはぼくと会うたびに、いまは亡き弟を思い出していたのだろうか。それと失踪とどういう関係があるのだ。
「ずっとフリーでやっていた人かと思いました」
「うちの社長の大学の後輩にあたる。フリーだったよ。売り込みに来たんだ。OBの経営する会社だからってね。うちの営業特集の記事を手伝ってもらって、一時的に社員をしていた」
 この時代、フリーランスは怪しい存在だった。広告記事の作成だとしても、会社の得意先企業に取材で行かせるわけにはいかなかった。相手は、業界紙とはいえ「記者が取材に来る」と思い込んでいるからだ。
「で、記者で採用していた彼女と結婚して、うちを辞めた」
 あの大人しそうな奥さんも、ここで仕事をしていたことがあったのか。
 ミタムラ専務は深いため息をついた。
「君は、彼とどの程度の付き合いなんだね?」
 それはあまりいい意味で質問されていないな、とぼくにもわかった。
 (つづく)

──この記事はフィクションです──

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