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169 出会いのおもしろさ

映画やドラマを途中から見る

 世の中の出会いは、いつも偶然の積み重ねだ。
 昔、映画館はシネコンではなく、全席指定でもなかったから、自由に出入りできた。途中から入って最後まで見て、休憩、予告などを経て、もう一度冒頭から見る、といったことを平気でしていた。
 なにがなんだかわからないので、頭から見て、その回も最後まで見ることもあったけれど、なんとなくわかったので途中で離脱することもあった。
 つまり、いまは映画の時間にこちらが合わせているのだが、かつては、こちらの時間に映画が関わってくる感じだった。
 いまも、家人の見ているドラマや映画を途中から眺めることがある。もちろん、私としてはそれを「見た」とは言わない。眺めていたのである。車窓に目を向けるのと同じようなものだ。
 見るつもりのない映画やドラマを、途中からでも眺めると、それなりにおもしろいこともあるけれど、それを私は「見た」とは言いにくい。それでも、そうした断片が自分の中に蓄積されていき、あたかも自分のオリジナルの発想みたいに芽吹くことだってありそうだ。
 1970年代の話になるけれど、私は子どもだったので自由に映画を見に行けるわけではなかった。一番近い映画館は子どもが行ってはいけないタイプで、次に行ってもいい映画館は横浜西口か伊勢佐木町だった。映画の上映時間は新聞広告に記されているけれど、それにちゃんと間に合うことは滅多にない。だから、途中から見て途中で帰ることになる。
 とはいえ、それも一種の「出会い」だ。
 映画のサウンドトラックが好きでラジオやレコードでよく聴いていた。「サウンド・オブ・ミュージック」も「ウエスト・サイド・ストーリー」も見ていないのに音楽は聴いていた。これも一種の、途中入りのようなものかもしれない。
 バート・バカラックが好きだったが、映画「明日に向って撃て!」を見たのはずっとあとのことだった。テレビで放映されたものを見たが、二本立てで劇場でも見た。確か「スティング」と二本立てだったと思う。馴染みの音楽が流れただけで、妙に感動していた。
 「宇宙戦艦ヤマト」のテレビ版は、再放送か再々放送か忘れたが、これも途中から見た。たまたまどこかのお店で見て、それで「こういう話なのか」と思って最後まで見た。その後、最初から一通り見た。映画版は見ていないのでわからない。
 こういう出会いは、向こう主体ではなく、あくまでこっち主体である。出会ってしまった、と受け身のようでいて、時間軸はこちらにある。だから、そこに運命を感じてしまったりすることもあるのではないか。

必然にしているのは自分

 偶然にすぎない、こうした出会いを、必然にするのは自分しだいだろう。あとから「あれは必然だった」と言うのは簡単だ。出会った瞬間には必ずしもそこまでは思わない。正直「つまらない」とか「わけがわからない」といった反応だってあるはずだ。
 自分から能動的に接触していくときよりも、偶然の方が劇的に思える。美化しやすい気もする。
 いまも、多数のテレビドラマを初回だけ見て、あとは見ずにいることも多い。もしかしたら、途中から見ていたら最後まで見たかもしれない。
 こちらが能動的に近づくときには、先入観や期待感があるので、それとのズレがこちら側でうまく処理できないときには、続けられない。
 世の中どのような作品にも「アンチ」がいる。きっと、こうしたズレを修正していくことは、難しい作業なのかもしれない。少なくとも、ちょっと面倒な作業になる可能性はある。うまく処理できれば、それは「予想を超えたおもしろさ」になることもあるだろう。
 あらゆるコンテンツ、エンタメにはそうしたズレを乗り越えられるかどうか、試練のようなものが発生する。それを乗り越える力としてレビューであったり受賞といった華々しさが必要になることもある。
 私は「グラミー賞」「アカデミー賞」「トニー賞」を見るのが好きだ。それは他者による「評価」と「途中から入る意外な出会い」に満ちているからかもしれない。

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