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157 説明責任なんて大した責任じゃない

言葉を吐く者たち

 自分のこととして書くのだけど。だから、なにかを糾弾しているわけではない。
 私は出版関係の仕事をし、業界紙の記者、雑誌編集者、ライター、書籍編集、ゴーストライターを経験してきた。この仕事に共通するのは「言葉」だ。主に書き言葉である。しかし、なにかを文字として残すには、当然ながらたくさんの会話も経ている。取材し、意見を聞き、仲間と議論し、あるいはインタビュー相手と議論することだってある。しゃべってしゃべって、しゃべり尽くした上で、そこから得られた「何か」を文字にして残す。
 そうして文字にされたものを読んでさらに会話が生まれる。
 言葉と言葉のやり取りの上で仕事をしてきたわけだけど、そんなことを言ったら、たいがいの仕事はそうなのかもしれないけれど、言葉を発する側としては、自分から出た言葉は口から出たものでも指先から出たものでも、責任を持つことになる。
 責任とは、何だろう。
 言葉によって起こるさまざまな事象に対する責任とは、何だろう。
 SNSで炎上することもあるだろうし、特定の誰かとぶつかることもあるだろうし。
 そのたびに、そもそもの責任はどこにあるのか、と考えたりもするだろう。そして、責任を追及したくなるかもしれない。
 この頃、よく耳にする「説明責任」というフレーズが嫌いである。誰が発していても、こちらとしては「都合のいいことを言うなあ」としか思えないからだ。
 つまり、「説明」は、口から出るか指先から出るかはともかく「言葉」である。言葉はとても大切なものだけれど、言葉以上でも以下でもない。言葉をどれだけ尽くしたところで、責任をまっとうできるはずがない。
 たとえば私がなにかやらかして、弁護士から渡されたテンプレートみたいな謝罪文を涙ながらに読み上げたとしよう。責任って、それで終わるのだろうか?
「説明責任を果たしました!」と満面の笑顔で胸を張って堂々と世の中を渡り歩くのだろうか?
 ただ言葉にすがっただけなのに?

言葉にすがる、よりかかる、ないがしろにする

 どの時代にも「言った言わない」といったケンカは起きてる。誤解、曲解も起きている。翻訳ミスもあるだろうし、意図的に間違えることだってあるだろう。あるいは「ここは訳さないでおこう」としてしまうことだって起こる。翻訳に限らず「聞かなかったことにする」は現実に起こる。
 言葉って、私たちにとっては日常生活で不可欠な大事なものになっているけれど、そこに自分の意思や責任を乗っけるときは注意して取り扱わなければならない。
 場合によっては、言葉にしない方がいいことだって世の中にはある。たぶん、私のnoteはそのひとつかもしれない。
 そして言葉にするからには、それによって起こることの責任を負うことは当然のことだろう。
 私たちは、言葉にすがることもあるし、よりかかることもある。時には都合の悪い言葉をないがしろにすることだってある。「あいつの言ったことだから信用できないな」とか。
 そもそも言ったこと、書いたことをすべて真実として受け止めなければならない法律はない。ウソは言葉を介する。つまり、もっとも手軽に人を欺けるのが、言葉なのだ。オレオレ詐欺を見ればわかるだろう。
 それだけに「あの人は本当のことしか言わない」と評価されることは、それなりの信用となり得るのだ。ただ、「あの人は本当のことしか言わない」と言った人がウソつきだった場合はどうなるのだ?
 疑えばきりはないけれど、世の中に氾濫するかっこいい言葉にまとわりつくウソ臭さは、たとえば、どんな名言もお笑いのネタになり得ることを見てもわかるだろう。
 名言はとても便利なものだけど、よくよく調べると「そういう意味じゃなかった」となってしまうこともあり得る。「いや、どこを探しても、そういう発言を裏づける史料はなかった」となったとしても私は驚かない。
 切り取られた言葉の運命は、それを扱う者に委ねられるので、善にも悪にもなり得るのだ。
 ただ、言えることがあるとすれば、「説明責任さえもちゃんと取れない人は信用されない」のである。説明責任なんて、世の中にある多くの責任に比べれば大した責任ではない。むしろ責任の「本丸」があるとしたら、外堀にある門ぐらいのものでしかなく、そこを開いたからといって中心へ攻め込めるわけではない。
 世の中には「○○責任」と、責任にいくもの門をつけて、なかなか本丸まで到達できないようにする傾向もある。それは結局、「責任は取りません」ということなのである。
「そんなことでいちいち、責任が取れるか」と思っているから、責任という言葉をないがしろにするのだろう。
 どうしてそう言えるのかと言えば、その人は「そんなこと」以上にいくつもの「責任」を抱えていて、それに比べれば、そっちの責任は自分は取らなくてもいいよね、と考えているのかもしれない。
 こういう文を以前に書いた。

「おれの責任はおまえらが思う以上に大きいんだぞ、このやろう」的な人にとっては「この責任が取れるのはおれだけだ」的になり、最終的に「おれに代わる人材はいない」となっていく。つまり驕りである。
 驕る○○は久しからず、などとも言う。
 言葉をないがしろにする人は、恐らく「久しからず」なのだろうと期待するものの、現実にはそうでもないようだ。人はピンチを乗り切ると強くなってしまう。たぶん、私たちは、そういう人たちを強くさせてはいけないんだろう。
 ただし、そんな人にかけるべき正しい言葉が思いつかないのである。残念なことに、言葉をないがしろにする人には、なにを言ってもムダだからだ。そしてこちらが諦めると、その人はさらに「ほらみろ」と強くなるのである。この悪循環を断つ方法は、たぶん、陰陽師にでも依頼するしかないのかもしれない。平安時代ならば、だけど。
 ではどんな責任の取り方がいいのか。それについてはまた別の機会に考えてみたい(と逃げる)。

池の畔(真上から)

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