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何でもない

向こうの部屋に覗いて見える姿見に空の青が映っている。水色の澄んだ光がくすんだ白い壁と汚れた手すりの中でぽつんと光っている。光が入って見えるのはその部屋一つで、他の部屋は囚人部屋のように暗い。僕は太陽に向かって座っていて、日に焼けて少し顔が赤い。とんとんと柵の向こうのヘリをスズメが跳ねている。起きてしばらくは心臓が痛く、コーヒーを一口飲むといくらか治って、なぜだか理由はわからないままで、タバコを控えようかと考えながら今日初めてのタバコを吸っていた。すぐには回らない頭を無理くり動かせないから、適当に本を広げる。メディアがいかにしてダメになったかが書かれているのをしばらく読んでから、次にセロ弾きのゴーシュが目についてそれを読む。本の中に世界が広がっていて、そこで息をして楽器が鳴っている。ここにも世界が広がればいいのに、簡単なものじゃないのか。そりゃあそうだ。毎日書いていたってそこに反省だとかがあってはじめて進むもんだきっと。しかし反省しようにも道標だって見当たらないのだ。ここには長く居すぎた。そして長いほどに立ち去るのは難しくなるのだ。勢い任せの本番勝負、誰の人生にも練習はない。そこらの石ころよりこの命は短い。まじか、そうか、でもそんな実感を持たずに日々は過ぎてしまう。そうして悠長に書いて食べてだ。体のあっちやこっちが不調なだけで簡単に気分は落ち込む。いかん、書いているものにだってすぐに引っ張り込まれる。止まりそうな体をえっさほいさと持ち上げる文章。死んだ顔して電車に乗り込む人がふっと笑えるような。なんだそれは。顔が死んでしまうなら家で寝ていた方がいいに決まっている。やめろやめちまえ。腹が減ったなら食え。おらおらやりたいようにやらんか!バカたれ!

そうだ、書きたいから書くのだった。基本のきを忘れていた。何事もまずは基本だ。とかいうと書き方の基本なんて知らずに書き出しているお前はなんだ。不届きものだ今すぐペンを置け、外でも走って頭を冷やせ。走ったらあったまるだろうペンだって持ってないだとか御託はいいのだ、と喧嘩はやめて、そう書きたいから書くに立ち戻る。そもそもの目的はうんこをするように書くこと、排便のように快楽を感じて、もっといえば息するように書くことだった。深呼吸したら気持ちがいい。意識せずとも呼吸しているように書けたら面白いだろうということだ。無意識の呼吸を意識して瞑想だとかは、自らをコントロール、俯瞰する術を学べる。それが主な目的でないにしろ。書くことも今は無意識にはできてはいない。夢遊病患者のように、ありゃいつの間にかとんでもなく面白いものが書けた!なんてことはない。目が覚めていても書けてやしない。それではどうするか。呼吸に目を向けるように、書いていることに集中してみよう。書くことに、ではなく、書いているということに。頭の中に浮かんできたもの、いやその前の喋るものを、曖昧なものを今文字にしている。実際に喋ってはいないから、喋り言葉とも違う。ひたすらぶつぶつ言いながら書いているのも不気味だろう、周りに人もいる。それで、喋り言葉とも違うこれはなんだろうか。書き言葉。作家という人たちが書くのは多分もっと考えられた言葉じゃないか、とも思ったがそれは偏見かもしれない。無闇に人を区切って見当をつけるのは良くない。ただここに書かれているような、何を書いているのだかわからないものと、しっかり本になりました、の文章は違うようだ。それは質の問題か、だとしたら話が早い。質が上がるまで書き続けるだけだ。果たしてそれで質が上がるかはわからないが、数をこなす他、今は出来ないというか、他に方法を知らない。質じゃなかったら、深い呼吸と浅い呼吸があるように、書き方の違いがあるのかもしれない。浅いのはどう転んでもこの今書いているほうだろう。なんたって対して考えもせずにただダラダラと、いやまあ意味は勢いに任せて書いている。ボールを抱えてただまっすぐ走るように、考えちゃいない。頭脳派プレイヤーのように戦略を考えて流れを見てなんてしていない。呼吸も深いほうがいいとされているように、書き方にも深さがあるのかもしれない。確かに潜っていくように感じる小説はあるし、それがそこに空間があって時間が流れているということか、今はシャベルを持って地表をほじくり返してはふうと一息ついているぐらいなものだ。生ごみを埋めるぐらいの穴しか掘れていない。その生ゴミがこの文章だ。せめて野菜の栄養に放ってくれ。美味しいトマトが食いたい。ついでに香草も育てて。そんな栄養になるならだいぶましな話で、実際これは読む、くらいしかできないもので、しかも読まれだってしない、悲惨だ。かわいそうに弔いに燃やすこともできやしない。パソコンは高かったから燃やすわけにもいかない。せめて成仏くらいは、念仏でも唱えようにも、一言だって知らない、南無。空に飛び立った文章はまた雨になって地に降ってくる。ポツリと落ちた言葉をスーツのサラリーマンが拾う。うんこ、の一文字。傘を差してそのまま駅に向かって電車に飛び、乗った。
いかん、また真面目に考えだしていた。真面目になると枠にはまっていく。そんなものはさっき鼻をかんだ塵紙のように丸めて捨てよう。薬品を撒いた部屋の中で清掃してから鼻が痛い。中の粘膜がチリチリする。このやろう、もっと上等なマスクでも用意してくれんとたまらん。あおっぱなが出て、それでも治らない。タバコの煙が鼻に染みる。心臓が痛いのもそれのせいじゃないか。真面目に考えないでも書く手が止まる。もしかしてこれは、飽きてるのか。いやそんなわけはないそれじゃまずい。書くことだけをとりあえずの目標にしているのに、それに飽きちゃあおしまいだ。されでももし飽きてるのなら、それはしょうがない。意志の力で変えられることじゃない。飽きたらやめるのがいいのだろうが、飽きても続けたらどうなるかの実験だ。人体実験が好きなのだ。だからドラッグも好きだったのかだ。どうなっちゃうのか、なんて子供みたいにワクワクする。ワクワクだ。今はワクワクしていなかった。それも自分で、よしワクワクするぞお、というわけにはいかない。ワクワクというくらいで自然と湧き上がるものだそれは。だからと言って待っていてもしょうがない。待てば来るものでもないだろう。それなら書いて待っていたほうがいくらか気分は紛れる。井戸が枯れるように何も湧いてこなくなったらそれはそれで面白い。顔も干からびてシワが寄ってくるかもしれない。内面と外見はリンクするのだ。干からびた顔で断食十日目ですと乞食でもしたらいい。その時にも笑えているだろうか、笑えていればなんだっていいのだ。そうか、笑いがなかった。真面目な顔してどうするんだ。ヘラヘラでも笑ってからだろう。そうだ退屈しているのだ、退屈はつまらない、もちろんだ、つまらないを退屈と呼ぶ。いや厳密には違いそうだが今はどうだっていい。退屈を抜け出すには、何かをする、だけじゃない。退屈をとことん味わえば退屈にも飽きそうだ。何もせずただ寝転んで天井の皺を数えて一日が終わる。三日くらいは過ごせそうだが結局腹が減る。なんだ楽しみを求めていたのかとそこで気が付けばこっちのものだ。飽きるまでやることが大事だ。書くことにも本当は飽きていない。こうして書いているのだから。毎日が波乱万丈、怒涛の生活!でなくともちいちゃな変化はあるし、自分はしょっちゅう変わって困るくらいだ。そのままを書くしかない。それでも書くことはありそうだ。書くことがないのも珍しくていい。なんもない、今日は126本目の皺を数えました。顔の皺が深くなって蟻が挟まってそこで死にました。だめだ、なんてくだらない。そうだ自惚れていたのだ私は。書くことについて考えようとか言い出して、チラシの裏に描いたお絵描き、便所の落書きのようなもんになんだか意味をつけようとして躍起になっていた。忘れてはいけない。便器に向かって踏ん張っているだけなのだ、ここに書かれているのはまさに排泄物。しかも畑の栄養にもならずに下水に流されていく。処理場の人に手間を取らせる、余計なものでしかない。すいません、自分のクソの始末もできないで、いつもありがとうございます、と頭を下げるのが筋だろう。パンツにばかり筋をつけている場合じゃない。話の筋はとっくに見失っている、というかはなからそんなものはない。鼻水が垂れてきて困る。まずはそうだ、形、にしなければ。一つの形にすることを覚えなければ、いつまでも軟便を撒き散らしていてもしょうがないのだ。せめてとぐろを巻いたような、アラレちゃんが持っているような綺麗な形の、ピンクだったら尚更いい。色づく前に、少しは頭を働かせなければならない。そうやってやっと文章が生まれるのだきっと。あらぬ方向にばかり勝手に歩き出して、同じところをぐるぐると、しまいには木に何度も頭を打ちつけていた、気絶するまでやめないつもりだ。キツツキのように穴でも掘れればまだいいが、頭を割って死ぬのが関の山だ。看板くらい立てといてくれたら、というのがもう甘い。何にもない、道がないから自由に歩き回れるのだ。山道というか、山の中は素人が歩けるもんでもない気もするがしょうがない。木を避けて足場を確認してなんとか進む。クマに会わないようにきちがいみたいに声を上げながら。歌でも歌おう。不安が少しは紛れるだろう。ああもう日が暮れそうだ。こんなところで寝られやしない。それこそクマに食べられる。でももう後にも引き返せない。どこから来たかだってもうわからない。それならせめて進むしかない。ある時パッと開けた空き地にぽつんと小屋でもありはしないかと期待して。淡い期待だ、そのくらい持っとかないと歩けやしない。死んでも死に切れんぞ。でもここにもいいことはある。ここで野糞でもすれば森の栄養にはなる。そうか。駄文があるから素晴らしい文がある。クソを栄養にして立派な木が森が生まれるのだ。なんだかさっきの話に戻っていないか。後ろを見ても前を見ても道はないからわからない。どっちが前かもわからない。考えてもしょうがない。なんとか理由を意味をつけていい。それでなきゃやっていられないならそれでいい。立ち止まっても体は冷えていくばかりだ。美味しそうな香りが窓の隙間から漏れ出して、煙突からは煙を出して、暖かい明かりをともした家が誰かが訪ねてくるのを待っている。

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