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天皇家と朝鮮と国際金融資本

歴史を調べる時、AIに質問したり、ウィキペディアを読むと騙される
書き換えられた歴史が表示されてしまったり、AIの場合は性別や親子関係の誤解を生む内容が表示されるので、真に受けると騙されてしまう。

平城京(ならのみやこ)は、710年に藤原京から遷都した奈良時代(710年 – 794年)の日本の首都でした。

東大寺や巨大な仏像である東大寺盧舎那仏像、法華寺などが建立された。

中国の都を模倣した奈良の都
唐の都長安城を模倣して大和国に建造された都城。
中央北域に宮城・平城宮(大内裏)を置いた。
東西約 4.3 km、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、
「坊」は朱雀大路を中心に右京、左京それぞれに一坊から四坊まであります。
さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように、全域が72坊に区画分けされていた。

坊(ぼう)は、平安時代の都城制における区画の単位で、幅24mの大路で囲まれた大区画を指します。
1坊が4保で4町四方で、一町は約120m四方の敷地です。左右対称で方形の都市プランである。

条坊制の王城
メインストーリーは、南北の大路を「坊」と呼び、東西の大路を「条」と呼んだ。
藤原京・平城京・長岡京・平安京、および、大宰府(22条24坊)・多賀城等がある。

「藤原京」条坊では、土地の選定が悪く域内の3箇所に山が有ったため都の形が不完全になった。
皇宮は都の中央に置かれた。

藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年(707年)に審議が始まり、和銅元年(708年)には元明天皇により遷都の詔が出された。
和銅3年(710年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された状態。

平城京

「恭仁京」や「難波京」への遷都によって平城京は一時的に放棄される。

745年(天平17年)には、再び平城京に遷都された。

784年(延暦3年)、「長岡京」に遷都されるまで、平城京は政治の中心地であった。
山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
9世紀末ころ、旧京域はすでに農村と化していた。


平城京模型

再)平城京?
弘仁元年(810年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。
これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。
これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。

「平城京」の名前の読みに議論がある件
“へいじょうきょう”は漢音と呉音が混ざっています。
平城天皇が「へいぜい」と読む
「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”
「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”
漢音に統一すると“へいぜい”になる
ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音で、漢音だと“けい”になってしまう。
漢音の“へいせいけい”と読むのか?という問題から、“ひょうじょうきょう”説も。
「京」の日本語訓読みは「みやこ」です。

漢音を学び持ち帰る以前にすでに建康(今の南京市)より伝わり日本に定着していた漢字音が呉音でした。
呉音は、建康より伝わった経路から対馬音(つしまおん)とも呼ばれていました。
新しく漢音が伝わり、それまで普及していた読みは対馬音→大和音→呉音と呼び方が変化したとも言われる。

天皇になるべきではなかった桓武天皇 
渡来人秦氏との繋がりとその出自と陰謀
第50代天皇(在位:781年4月30日〈天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)
尊皇の人でも尊敬しないと言われる天皇

桓武天皇は即位すべきではなかった

天武天皇系の政敵であり天皇の地位から程遠い山部親王は、天智天皇系(本来の血筋は天武天皇系であるべきところ)の中継ぎ天皇であった。

桓武天皇の出自は光仁天皇の第七皇子で、母は朝鮮の百済系・高野新笠(たかの の にいがさ)だった為、卑しい身分であり、皇太子には相応しくない皇子だった。

高野新笠の父は百済の夫餘氏の子孫で和氏の「史」姓の和乙継(武寧王の子孫という証拠はどこにもないという自称)帰化氏族、母は宿禰姓の土師真妹(はじのまいも)。死後ともに正一位が追贈された。
子女は、能登内親王、桓武天皇、早良親王
帰化人和氏一族は、和家麻呂(新笠の甥、桓武天皇の従兄弟)以降、ほとんど知られていない。
桓武天皇の頃には、古代豪族だった土師氏は四系統に分かれ、真妹の家は”毛受腹(もずばら)”であった。

推していたのは宮廷に存在した朝鮮族(百済渡来人)達だったという。
ここから、今も日本の天皇は朝鮮の血筋と不名誉な言われ方をする。
当時、百済は半分日本人が住むという土地柄で、血筋は判然としない。

天武天皇系の皇后。井上内親王の子である他戸親王を皇太子にした。
しかし、朝的である天智天皇系の陰謀(藤原百川に井上内親王が光仁天皇を呪詛した疑いをかけられる)で
他戸親王共々、皇位を剥奪され、大和の国の没官の家に幽閉されてしまう。
775年に二人同時に暗殺される。

天智天皇系が皇太子に立てたのが天皇に相応しくなかった山部親王で、のちの桓武天皇
間違って即位してしまった桓武天皇は、陸運に頼り水運が出来ない平城京を捨て、大きな川が3本流れ、神社仏閣の少ない長岡京に遷都するが、わずか10年で長岡京も捨てて平安京へ遷都する。

776年には洪水や大火にみまわれるようになり、井上内親王と他戸親王を暗殺した者たちは恐れおののく。
777年には光仁天皇と山部親王が病に倒れる。
778年、井上内親王の墓を改装したり、皇后の位を復活させるなど、どれほど怨霊に恐怖していたかが知れる。
781年、主犯格の藤原百川は、桓武天皇が即位すると娘の旅子を後宮に入れる。
桓武天皇の弟である早良親王が皇太子に立てられる。
百済系の血筋で渡来人しか身内がおらず後ろ盾もない桓武天皇は百川には操りやすかった様だ。

784年、桓武天皇は長岡京への遷都計画を開始
藤原種継を造営責任者に任じた。
住める程度の建物が完成すると、桓武天皇はすぐに長岡京へ移る。平城京から逃げるようにして

平城京を捨てた理由には、興福寺や東大寺といった仏教勢力が強い土地(高僧が政治に口出ししてくるし、大きな寺院を維持するため莫大な国家予算が必要)であったため、桓武天皇は奈良から離れたかったようである。

長岡京の地は渡来人である新羅系の秦氏の勢力下に有り、母が百済系の血筋である桓武天皇には居心地が良さそうだった。

785年、今度は藤原種継が暗殺される。長岡京の造営は終わっていなかった
遷都に反対した大伴継人とその一族に疑いがかけられた。
大伴家持は種継と不仲の噂があった早良親王のそばに仕えていた事から早良親王の関与が疑われる。

早良親王は母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。
東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師に後事を託したとされる。
早良親王は無実を訴えますが、長岡京の乙訓寺に幽閉され、弁明も許されないまま淡路島へ流される。

冤罪で流刑にされた早良親王は10日間の絶食と怒りにより憤死(ふんし)したという。

桓武天皇に実子である安殿親王が産まれたことから、皇太弟が邪魔になって陰謀にて追放した。
豊臣秀吉の跡継ぎ問題にも似ていますね。

早良親王憤死後より、朝廷内で次々と人が死んでいくようになる。旅子も側室も大勢死んだ。
桓武天皇と藤原乙牟漏の子である第一皇子・安殿親王(後の平城天皇)も病に倒れ、藤原帯子も急死する。
「安」の字は安重根(テロリスト)など朝鮮人の名に多い。

桓武天皇は怨霊に怯え、憤死した早良親王へ崇道天皇の追諡(尊号)を贈り怨霊の怒りを鎮めようとした。
淡路島に捨てられていた早良親王の遺骸を回収させ丁重に改葬する。
よほど怨霊を恐れていた事が分かる。

早良親王の死因については絶食以外に、桓武天皇が命じて食事を与えず餓死させたとする説もある。

桓武天皇は東大寺を嫌っていた。東大寺は良弁が親王禅師に後を託していた。
桓武天皇には親王禅師(早良親王)は目障りで消したい存在だった。

桓武天皇は内裏で多くの死者を出した長岡京をわずか10年で取り壊し、平安京を建てさせた。

平安京を建てる場所を提案したのは和気清麻呂(現在の岡山県和気町出身)という人物で、道鏡事件の功労者でもある。

平安京

ある時、清麻呂は脚が不自由になって起立できなくなってしまったが、八幡神に拝礼しようとして輿に乗って出発した。
豊前国宇佐郡楉田村(現在の大分県宇佐市和気近辺か)に至ると、300頭の野猪が現れて道を挟んで列をなし10里ばかり前駈して山中に走り去った。これを見て人々は不思議なことだと思った。
八幡神社に参拝すると清麻呂はすぐに立って歩けるようになった。
宇佐八幡宮の神封から綿8万余屯を与えるとの神託を受けて、清麻呂は宮司以下豊前国中の百姓にこれを分け与えた。
往路は輿に乗って出発したが、帰路は馬を駆って帰還した。これを見て驚かない者はなかったという

平安京と川、水路

平安京は400年も都で有り続けた。
遷都以来、平清盛により断行された福原遷都(1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って皇居のある都でありつづけた。

長安の模倣「朱雀大路」
「平城京」からは長安同様に皇宮が都の北端にあり朱雀大路が長くのびる北闕型が採用され、平城京の朱雀大路は幅73メートル、平安京では幅82メートル(延喜式)となった。

「平安京」朱雀大路は自動車道路の25車線分に相当し、日常の通行に必要な幅ではなかった。
このサイズについては「長安の半分」を意図したという見方がある。
平安京朱雀大路は全幅84.0メートル、側溝より内側の道路幅70.2メートルとする推定もある。

羅城門以南は、平城京では下ツ道、平安京では鳥羽作道に接続された。

当時十数名ほどであった公卿を除いては大路に面して門を作ることが禁止されていたので、朱雀大路に面しては築地塀が続いた。

道の脇の排水溝と街路樹の清掃や維持管理は沿道住民の義務とされた。
平安京遷都から20年後の時点で大路の管理が行き届かなくなった。

渤海使(ぼっかいし)
渤海より日本を訪問した使節である。
727年秋から919年までの間に34回または922年までの間に35回。
このほか929年、後継の東丹国(契丹(後の遼)の封国)による使節派遣1回が記録に残っている。

朱雀大路は無用の長物になる
929年、朱雀大路を使って迎えるべき中国からの外交使節が途絶した。

時代が変わる 都も変わる
奈良時代 710年 – 794年
平安時代 794年 – 1185年

平安京
桓武天皇は、792年(延暦11年)1月そして5月、狩猟をよそおって、候補地のひとつ山背国葛野郡宇太村を訪れた。 さらに翌793年(延暦12年)には、大納言の藤原小黒麻呂や左大弁の紀古佐美らも派遣し同地を確認・検討させた。
当地に決定されると長岡京の解体と、平安京の建設が始まった。

平安京は上側(北側:山から清らかな水が都に最初に流れる場所)の中央には「大内裏」(だいだいり)とよばれる、天皇の住まいと使節を迎える宮城が広く場所を取っている。
大内裏の北端を東西に横切る一条いちじょう大路、大内裏南端の二条大路から順に三条大路、 四条(しじょう)大路~九条(くじょう)大路までが東西の大通り。
南北の通りは、中央に朱雀大路、東端に東京極(ひがしきょうごく)大路、 西端に西京極大路がある。

朱雀大路南端には羅城門(らじょうもん:羅生門)があり、平安京全体の主門の役割があった。
現在の中華街の門同様、城壁の門ではなかった。羅城門は専ら使節団に儀礼的な役割を担っていたらしい。

朝廷の収税力減少、右京の衰退、管轄者の京職の形骸化に伴い荒廃が進んだ。
鎌倉時代初期には朱雀大路を含む道路の農地化が横行していることが記されている。
戦国時代には防衛上の理由から左京とその北側のうちそれぞれごく一部が惣構を持つ囲郭都市の下京と上京になり、もとの朱雀大路は市街地から切り離されることとなった。
豊臣政権が惣構を解体して上京・下京を一体に囲む御土居を構築し、もとの朱雀大路の区域の多くも御土居内部西辺に取り込まれたが、朱雀大路は復活していない。

桓武天皇、園神と韓神 
山城で祀られていた秦氏の神が皇室の守護神として宮内省に祀られています。
園神(そのかみ)と韓神(からかみ)は859年に皇室の守護神として祀られ、藤原氏の旧姓は祭祀職の中臣氏で、「天孫降臨」の際に随伴した一族が先祖とされています。
藤原氏の氏神を祀る春日大社(奈良市)もヤマト王権と天皇家が重視した「上七社」の一つです。
『延喜式』神名帳に「園神社、韓神社」と記されています。

平安京の宮内省に祭られており、園神は西北隅、韓神は北西隅に祀られていました。
平安京造営以前に、帰化人たちによって建てられた2つの神社です。
園神は新羅の神なので秦氏の神ということでしょう。
応仁の乱の前まで園韓神祭(そのならび韓ノ神祭)という祭りがあったようです。

今も、京都には韓国人と北朝鮮人が多く住んでいます。同族の桓武天皇の功績でしょうかね。

郭城
異民族の侵攻の恐れのある大陸においては、郭城(塀=羅城をめぐらした城)が洋の東西を問わず一般的であるが、単一民族とされる日本国内では都市を壁(塀)で囲む事はなかった。
庶民との区別や治安の悪化(悪霊対策)により貴族の屋敷は塀が作られる。

本来の「京」は「大きな城門=京」で行われる祈りの儀式(高)と悪霊を防ぐお守りの埋まった「お土居(土塀)」によって守られた街を意味します。

儒教の教典『周礼』において、王城は「一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。
城内には、南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。
中央に天子の宮、その東に祖先の霊を祀り(宗廟)、西に土地の神を祀る(社稷)。
前方、南には朝廷、後方、北には市場を置く。」とある。
この思想を背景として、中国に条坊制の王城が発祥し、風水とも組み合わせられていく。

宋の時代に入ると条坊制に基づいた都はあまり作られなくなった。

日本の条坊制の街作りで郭城が見られるのは大宰府が最初と考えられる。

戦国時代の城と城下町
戦国時代からは、武家の城には城壁を張り巡らし、堀も作られるようになった。

敵軍が攻めにくくするために、城下町の道幅は狭く、橋は少なく幅も狭く作られるようになり
道路はわざと曲げたりメインストリートに対して斜めに作って、他所から来る兵士を混乱させるようにした。

土地勘がある地元の兵士は守りやすく、曲がった道路の角は見張りやすく防御しやすい効果もあった。
山川が多い日本の古い村の道路は地形由来の曲がりくねった道路や、戦略上の理由からわざと直線に作らなかった道路が多くなっていく。

江戸時代、参勤交代が行われるようになると、多くの大名が通る道路は幅が広くなった。
西日本の要衝には姫路城や大阪城の様に、西の大名が江戸城(将軍)を攻めづらくする大きな城が築かれた。
そして関ヶ原の合戦で西側だった大名の城は取り潰されていった。

特別会計とは、国や地方公共団体が特定の事業や資金の運用状況を明確にするために一般会計とは別に設ける会計です。特定の収入、特定の支出を一般会計と切り離して独立して行われ、各特別会計ごとに予算執行が所轄官庁・地方公共団体で管理され、それぞれ使い道が決められています。年金、国民健康保険、介護保険などがこれに相当します。

撫育方(ぶいくかた)とは、長州藩の中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就によってつくられた基金で、1761年から1764年に行われた萩藩内の土地の調査によって増えた税を撫育方としました。
越荷方(倉庫業、金融業)などを通じて増収と蓄財にまわされた。
撫育方が蓄えた資金は負債には回されず、非常時や開発のために取り置かれました。
普段はたくわえておき、干拓(開作)事業、港湾整備などの新たな開発(ベンチャー投資)のために使われました。撫育局は若手を実力主義で登用した。

撫育資金は、一種の特別会計制度である撫育方により運営される資金で、隠し財産とも呼ばれます。
撫育制度は、1763年の検地によって得られた収入を在来の会計と区分して別個に管理するようにしたもので、隠し米、紙、塩・蠟などが撫育方により運営されました。

長州藩の武器購入額92400両
莫大な資金は、江戸幕府を倒すための武器購入資金にも使われました。
明治維新達成後は、元撫育局トップが明治政府を裏会計思想で牛耳ってきたと言われています。

アイヌの撫育(ぶいく)とは、江戸時代に幕府がアイヌ(蝦夷)に対して実施した措置で、後に年中行事化されました。幕府の「撫育同化政策」でした。

撫育給付
オムシャ(おむしゃ)とは、アイヌ語のウムシャ(無沙汰(ぶさた)の挨拶(あいさつ))の訛ったもので、もともと旧知の人に再会した際の贈答挨拶のことでしたが、しだいに江戸幕府が定めた決め事を箱館奉行所が各場所へ派遣した詰役が、アイヌの人たちに読み聞かせ、酒やタバコ、米などを与える政治的儀礼となりました。

同化と言っても混血させず、江戸幕府の支配人・番人はアイヌ女性を妾となすことを禁止し、アイヌ男女の結婚を奨励していました。
アイヌは、黄色みが少なく明褐色の皮膚で、赤味の度合いが多いのが特徴です。また、体毛が比較的太く長く、新生児に蒙古斑がない。
顔の特徴としては、二重まぶたがなく、顔が長くて目の位置が割と高いところにある、鼻が低い、薄い唇、耳たぶが余り発達していないなどが外見の特徴として挙げられます。
顔の彫りが深く琉球系も似ていますね。弥生系のアッサリ顔アイヌ人はいないという。
アイヌは東北から北海道といった豪雪地帯(蝦夷地)に広く居住していました。
アイヌには弥生人の血が入ってない縄文人タイプ。
自称アイヌ人も増えているので、独特の特徴のない(自称)アイヌ人もいます。

北海道の条坊
最後の条坊制は、明治時代以降に開発された北海道などに受け継がれたが、連携しておらず離れた条坊都市が大きくなり、やがて交わる部分では道路が噛み合わなかったり、都市全体の角度が違っていて斜めに合流する事もあった。ルール設定問題や北海道の全体構想を見渡せなかった明治政府の愚策とも言える。
日本では比較的新しい道路建設が行われた北海道は長い直線道路(一般道)が見られる。

条坊都市や城塞都市には城、湊、市場、相場、寺社が配置される。

明治維新はロスチャイルド家が儲けた
ユダヤ系の国際的金融資本家であるロスチャイルド家は、18世紀にフランクフルトで両替商を営んでいたマイヤー・アムシェルが宮廷銀行家となって巨富を築き、五人の息子がヨーロッパ各地に商会を開いて事業を拡大しました。19世紀には各国の財政に関与して金融市場を独占し、政治的にも影響力をもっていました。

革命の影にロスチャイルドあり
ロスチャイルド家は、フランス革命により巨万の富を得た一方で、多くの金融業者が破産したといわれています。
ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方である。

ロスチャイルド家は、ヨーロッパ各国と日米で稼いでいます。今は中国もですね。
一家で世界協調の金融・政策・アドバイスなどが出来るので、損しようがないわけです。

マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744 - 1812)が銀行家として成功
彼の5人の息子が5か所に分かれて銀行業を拡大させた。
フランクフルト(長男:アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト)
ウィーン(二男:ザロモンまたはザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト)
ロンドン(三男:ネイサン・メイアー・ロスチャイルド)
ナポリ(四男:カール・マイアー・フォン・ロートシルト)
パリ(五男:ジェームスまたはジャコブ・マイエール・ド・ロチルド)
二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった。

ロンドン家のシンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透した

2003年にはロンドン家とパリ家の両銀行が統合されたロスチャイルド・コンティニュエーション・ホールディングスが創設され、フランス家のダヴィドがその頭取に就任した。

東京奠都(とうきょうてんと)
明治維新に際して武蔵国江戸が東京(東の京)に改称され、都(首都)として定められた。
京都(平安京)との東西両京とした。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京に改称された。
同年9月8日に元号が明治に改められる
同年9月20日に天皇一行3,300人は京都を出発
同年10月13日に明治天皇が東京に入り、明治2年(1869年)に政府が京都から東京に移された。
その日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。
京都では、天皇が帰ってこられると長らく信じられていたが、明治新政府(三条実美)に騙されていた。
東幸に続いて京都への還幸となったが、この還幸にあたって三条は独り賛成せず、今すぐに京都に戻れば関東の人心を失するとして早々の還幸を牽制する意見書を提出した。
三条実美は東国と奥州を重視し「京都・大坂を失っても地勢に優れる東京を失わなければ天下を失うことはない」「たとえ京摂を失とも、東京を失わざれば、天下を失うことなし」と述べた。

三条の出生地は、山城国京都なので裏切り者と言われた。53歳で憎まれながら死ぬ。
明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法公布式典では明治天皇の脇に控え、憲法文を天皇に奉呈する役割を負っている。
明治天皇臣下では最高の席次を持ち、最高位の功臣として遇されたが、インフルエンザで死亡。

日本の首都と天皇の歴史はココまで。

ココからは陰謀説です、興味ない方はココで閉じてください。

長州藩の朝鮮部落
長州藩は朝鮮人の田布施一味が仕切って倒幕と天皇乗っ取り(日本乗っ取り)に動いていた?
奈良時代、桓武天皇の代で朝鮮人の血が天皇家に入ったことを書きましたが、
全くの替え玉説も出ています。

明治天皇替え玉説
長州藩の田布施一味(朝鮮人系統)に国家を乗っ取られた?
孝明天皇とその息子睦仁親王は伊藤博文や岩倉具視などによって暗殺されたという。
伊藤博文は朝鮮を愛し、朝鮮総督時代に朝鮮半島のインフラを整える為に働いた。
その伊藤博文は朝鮮で安重根に暗殺されちゃうんですけどね。最後の言葉は「馬鹿なやつだ」
テロリスト安重根は、現在の韓国では英雄視されていますから歴史知らずですね。

朝鮮部落民から日本の天皇へ
田布施一味は箝口令をしき、替え玉発言をしたものは殺される事になる。
天皇側近や皇族の何人かは殺されてしまったという。
睦仁親王に成りすました「大室寅之祐」が明治天皇になったという。
彼は山口県熊毛郡田布施の朝鮮系部部落民であるという。

これが替え玉説(日本乗っ取り陰謀説)です。

陰謀説パート2 
基薩長連盟と薩土連盟を作った坂本龍馬の暗殺は京都見回り組という。 
幕府は彼の暗殺を禁止していたにもかかわらず、誰の指示なのか。
田中光顕陸援隊隊長の関与?
中岡慎太郎が率いる陸援隊の副隊長を務めました。中岡の暗殺(近江屋事件)後、陸援隊を引き継ぎ、土佐藩の尊皇攘夷の動きを支えました。戊辰戦争では活躍し、維新後は新政府に出仕して数々の要職を歴任しました。

龍馬暗殺で最大の利益を手にしたのは誰か、それは日本人ではないことに察しが付く。
坂本龍馬が設立した貿易商社(亀山社中)は後には海援隊と改めましたとさ。

ペリー(アメリカ合衆国、日米和親条約)
プチャーチン(ロシア艦隊司令長官兼遣日使節)
ハリス(初代米国総領事、日米修好通商条約)
オールコック(下関砲撃、初代英国駐日総領事、維新支援、日英修好通商条約)
パークス(駐日英国公使、維新支援、条約勅許の獲得)
ロッシュ(幕府支援、第2代駐日フランス公使)
サトウ(駐日英国公使、維新側にも幕府側にも交流を持つ)ロスチャイルド系
グラバー(茶や生糸などの輸出、蒸気船や軍艦、武器などの輸入、修船施設や洋式炭坑の建設、蒸気機関車。勲二等旭日章)ロスチャイルド系
フルベッキ‐(明治新政府の国造り指導、宣教師)ロスチャイルド家

日本の主要通貨であった金貨が海外へ大量に流出していきました。
金銀比価(GSR:金価格÷銀価格)が拡大すると金融危機に陥る。
この金貨流出の原因は、一般に、日本国内と国外との「金銀比価の差」であると説明されています。
当時、金と銀の交換比率(比価)が、日本では1:5、外国では1:15であったため、日本から多量の金貨が国外に流出し、幕末の経済混乱をいっそう促進し、はげしい攘夷運動がおこる一因となりました。

両替で3倍に
外国人たちは自分たちが持ってきた銀貨を日本の金貨に替えて海外に持ち出し、
外国の銀貨に替えると、それだけで元の洋銀が3倍に増えるという仕組みでした。
幕末の日本の金貨の流出量は、通説では50万両といわれています。
海外では金銀交換比率でした。

上記の日本で尊敬されている外国人たちも金銀比価の差を利用して暴利を得た。

現在、銀の国内価格は金のおよそ66分の1、幕末の5分の1というのは金の大安売りが凄かったですね。

日本は国際金融資本に助けられてきたのか、戦わされてきたのか?

<ご注意> この記事も間違いが含まれています。


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