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馬が来る

縄文海進
海進は海面の上昇、海退は海面の低下によって起こります。

縄文海進(じょうもんかいしん)完新世海進
約7,000年前の縄文時代早期に起こった、海面が2~3メートル高くなり、日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象です。
縄文時代は今よりも2~3℃気温が高く、海の高さは今よりも3~5メートルほど高かったと考えられています。
縄文海進のピークは、約6,500年~約6,000年前まで。
縄文海進は、地球が寒冷化して氷床が拡大したことで海水面が現在の高さになったと考えられています。


縄文海進(斜線部分は海進と海退の差異)

1926年時点の関東平野地図に、縄文海進時代の海進領域(斜線部)を重ねた地図

古鬼怒湾(こきぬわん)は、縄文から弥生時代の印旛沼の一部で、現在の鹿島(茨城県)や銚子(千葉県)の方向から内陸に向かって広く開けた内海です。印旛浦とも呼ばれていました。

奥東京湾は、約6,000年前にあった東京湾の西部で、現在の荒川低地、中川低地、東京低地にあたります。水深が浅く流れも弱かったため三角州が発達し、次第に小さくなっていきました。

約6,500年前から海水面が安定し、5,300年前まで関東平野の奥、栃木県栃木市藤岡町付近まで海が入り込みました。このとき、奥東京湾では干潟の形成が始まりましたが、5,300年前頃から海水面が低下し、4,500年前には奥東京湾奥部域は淡水化しました。1,800年前頃までには海水面が-1~0mになり、奥東京湾は消滅しました。

現在の東京湾の湾口幅は20.9km、面積は1,380km2で、湾内最大水深は700m(浦賀水道)です。
東京湾中央航路は、長さが200m以上の巨大船や危険物搭載船などの往来に加え、総トン数10,000トン以下の各種貨物船やフェリー、RORO船などの内航船が行き交い、更には小型の漁船も航路付近で操業する世界でも有数の船舶輻輳海域となっています。

余談になりますが
東京湾はよく完成されていますが、ヒューマンエラーや機械トラブルによる事故は起こっています。
大きい事故も発生しています
1974(昭和49)年11月9日に中ノ瀬航路出口付近で発生したLPGタンカー「第10雄洋丸」と貨物船「パシフィック・アリス」号の衝突・炎上事故は乗員33名が死亡する痛ましい事故でした。
1988(昭和63)年7月23日には浦賀水道航路を航行し、横須賀港へ入港しようとしていた潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀沖で衝突し、30名が亡くなる大事故も発生しました。
1997(平成9)年7月2日、中ノ瀬航路を航行できないために中ノ瀬西側海域を航行していたタンカー「ダイヤモンドグレース」号が浅瀬に乗り揚げ、原油約1,500キロリットルが流出するという事故が発生しています。
2014年3月18日午前3時10分ごろ、神奈川県三浦市の南東約6キロ沖合の浦賀水道で韓国船籍コンテナ船「ペガサス・プライム」(2004年竣工、9618重量トン)とパナマ船籍の一般在来貨物船「ビーグルIII」(09年竣工、1万7220重量トン)が衝突、ビーグルIIIが沈没し8名が行方不明となった。

海退後、陸地が拡大しました。

馬が来る
4世紀後半の馬は、中国大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきたと考えられています。山梨県の塩部遺跡では、4世紀後半の遺物と馬の下顎歯10本が発見されており、体高は約125cmと推定されています。
また、群馬県では4世紀末に朝鮮に出兵したヤマト王権の人々が馬を持ち帰ったと考えられています。

騎兵
有史に残る最古の騎兵は、紀元前2500年、メソポタミアのシュメール絵に描かれた戦車部隊である。
最初は馬の存在が知られておらず、ロバが使用されていた。

馬にまたがる騎兵への移行は、新アッシリアのレリーフに残されており、アッシュールナツィルパル2世の治世が最初である。
裸馬に御者が盾を持ち、弓兵とまたがるもので速度は遅かったと思われる。

騎兵

アジアでは、紀元前20世紀頃から中国のオルドスや華北へ遊牧民の北狄が進出し、周囲の農耕民との交流や戦争による生産技術の長足の進歩が見られ馬具や兵器が発達、後に満州からウクライナまで広く拡散する遊牧文化や馬具等が発展した。

匈奴・スキタイ・キンメリア等の遊牧民(騎馬遊牧民)は、騎兵の育成に優れ、騎馬の機動力を活かした広い行動範囲と強力な攻撃力で、しばしば中国北部やインド北西部、イラン、アナトリア、欧州の農耕地帯を脅かした。遊牧民は騎射の技術に優れており、パルティア・匈奴・スキタイ等の遊牧民の優れた騎乗技術は農耕民に伝わっていったが、遊牧民は通常の生活と同様、集団の騎馬兵として戦ったのに対し、農耕民では車を馬に引かせた戦車を使うことが多かった。

中国では春秋時代までは戦車が軍の主力であった。
戦術の発達した戦国時代に入ると、機動力に優れ用い易い騎兵が重要視されるようになった。

兵法書の『呉子』でも騎兵の重要性が説かれている。
趙の武霊王が反対意見を押し切って胡服騎射(騎馬遊牧民の服を着用し、騎射を行う訓練方法)を取り入れたことはこの時代の軍制変革を象徴する出来事である。しかし中原地域では馬の養殖に必要な草原が乏しいゆえ騎兵の育成費用が高く、しばらくは弩や長柄兵器を用いた歩兵が軍の主力を占め続けた。
弩は普通の弓より長射程・高威力であり、騎兵に対しても有効だった。前漢の武帝の時代以降になると、定住しない匈奴の騎兵に対抗するため本格的な騎兵部隊が編制されるようになり、匈奴を服属させ西域を支配した。また、後漢や魏も服属させた遊牧民の南匈奴や烏桓などから騎兵を募った。

鐙は4世紀までに中国で発明され、7世紀までには東ヨーロッパへ伝わったとされている。
鐙を使用することにより、騎兵は馬と鎧を纏った自身の体重を手に持った槍や矛の矛先に集中させ攻撃することが可能となり、騎兵は機動力に増して強大な攻撃力を期待できるようになった。これらの理由から、モンゴル高原の遊牧民、中国の南北朝時代の北朝や隋や金、中東のサーサーン朝、欧州の東ローマ帝国やフランスなどでは、騎手が全身鎧を装着し、騎馬にも鎧を装着させるなど騎兵の重武装化が進んだ(重装騎兵)。欧州地域では馬種改良により大柄で力の強い重種馬が出現していたことも騎兵の重装化を支えたが、騎兵の過剰なまでの装甲化は、魯鈍な重種馬の利用と重量の増加から機動力を殺ぐ結果をまねいた。重装備の装甲騎兵は、軽騎兵や歩兵陣形の側面または後方に温存され、戦闘の最終段階で敵歩兵を突破する戦力として用いられた。モンゴル高原や中央アジア、キプチャク草原などの北アジアでも騎兵の重装甲化は進んだが、ヨーロッパにおけるような過度の重装化には至らず機動力が失われることはなかった。

得意の騎馬軍団を少数しか使えず日本に敗退したモンゴル帝国軍
元寇の文元寇(げんこう)は、鎌倉時代中期の1274年(文永11年)10月と1281年(弘安4年)7月に、モンゴル帝国(元朝)と属国の高麗が日本を侵略した戦役です。蒙古襲来とも呼ばれ、1度目は文永の役、2度目は弘安の役と呼ばれています。

永の役における鳥飼潟の戦いで竹崎季長の後方より駆け、元軍に弓を射る肥前国御家人・白石通泰の手勢。

元寇撃退

まだ数が少なかった馬は貴重な生き物で、貴族、のちに武家の乗り物(騎乗)になっていきますが、兵器扱いになり庶民が使えるようになるのはずいぶんと後の時代になります。(馬車)
牛車や輿で移動していた時代には、馬は価値ある乗り物だったことでしょう、今で言うバイクのような感じでしょうか。

放牧するには恒大な牧草地が必要
都では馬を放牧できない。
「黒ボク土」は、日本の国土の約31%に分布し、国内の畑の約47%を覆っています。北海道南部、東北北部、関東、九州に多く見られ、台地間や台地内の谷底、沖積低地、排水の不良な台地などにも分布しています。
黒ボク土は火山灰土と腐植で構成されており、表層は腐植が多いため色は黒色または黒褐色、下層は褐色となります。農耕地では畑(普通畑、牧草地、樹園地)として広く利用されており、北海道では畑地または草地にも利用されています。
黒ボク土は活火山や2~3万年程度前まで活発な活動をしていた火山の分布状況を反映しており、国外ではほとんど見られません。

馬牧
近畿地方や西日本では黒ボク土が少ないため、牧草が茂りにくい
都を作った場所は、牧草地には適していましたが、建物が立ってしまっているので放牧できません、
そのため、朝廷は東国へ馬牧を進出させました。現在の東京中心部あたりにも牧草地があり、馬が放牧されて、育つと朝廷へ献上されました。浅草は馬の牧場だったことを示す石碑も残る。

檜前氏(ひのくまべし)
古代の地方豪族である尾張氏、坂上氏、西文氏、毛野氏の子孫を指す名字です。

檜前馬牧(ひのくまのままき)は、平安時代に兵部省が管轄していた馬牧で、「延喜式」兵部省諸国馬牛牧条に武蔵国の牧として記載されています。
馬は5~6歳、牛は4~5歳になると左右馬寮に貢進することが定められていました。

檜前馬牧の所在地については、現埼玉県児玉郡上里町勅使河原辺りに比定する説や、現東京都台東区浅草辺りに比定する説などがあります。「東京市史稿」では、浅草神社の祭神である檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと推定しています。郷士の土師真中知(はじのあたいなかとも)が神として祀られています。
この3人は三社様とも呼ばれ、1312年から三社祭が行われています。

また、武蔵野国には「檜前の馬牧」、「浮島の馬牧」、「神崎の馬牧」がおかれ、順に浅草、本所、牛込ではないかといわれています。

奈良県明日香村檜前にある「檜隈寺(ひのくまでら)」跡は、7世紀後半に創建された古代寺院で、出土した瓦や講堂の瓦積基壇と呼ばれる築造技術などから、渡来系氏族である倭漢氏の氏寺であることが指摘されてきました。現在は、於美阿志神社の境内になっており、東漢氏の先祖である阿知使主を祭神としています。

東漢氏は、古代に朝鮮半島から渡来した有力な渡来系氏族で、倭漢氏とも。
5世紀に奈良県明日香村にあたる大和国桧隈(ひのくま)を中心に居住し、蘇我氏と親密な関係にありました。
蘇我馬子が擁立した(が即位後に対立した)、第32代天皇・崇峻天皇(すしゅん)暗殺の際には、馬子がさしむけた東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役を務めました。

蘇我氏の発祥の地は百済王族が居住していた河内石川付近などであることや、蘇我氏と百済との強い関係などから、蘇我氏の祖が百済王族すなわち朝鮮族であると推定されます。もちろん否定説もありますが、当時を見に行けないので誰にも分かりません。

またしても朝廷と朝鮮人の関係がみられましたね。

旧日本陸軍

富国強兵 戦争と技術革新
日本という国は、朝鮮人とユダヤ人によって他国と戦争させられ続け
多くの血の対価として技術を取り入れてきたというのが太平洋戦争までの姿ですね。
太平洋戦争はコミンテルンと朝日新聞の罠にハマって連合国と戦う事になってしまったわけですが。


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