100日後に30歳になる日記(19)
◆5月13日
はい、私はインセルでチー牛で弱者男性で非モテでキモヲタでアンフェでネトウヨです。
『山上徹也と日本の「失われた30年」』という本を読んだ。池田香代子と五野井郁夫の共著。
他人事のように親を切れたらどれほど楽か。切れないから親なのだ。山上徹也だけじゃあない。誰だってそうだ。培養されて生まれてきたような人間でもない限り、血縁の問題はいつだって付き纏う。ハイソな方々にはおわかりにならないかもしれないけれど。
自分がカトリック二世という錦の御旗をもって、本書中で何度もたやすく統一教会二世の山上に「彼は私だったかもしれない」とぬけぬけ言い放てる不誠実さ。彼は彼でお前はお前だ。小説の登場人物なんかへの共感と一緒くたにするな。
結局のところ、この著書は、山上徹也について語る、失われた30年について語るというよりかは、僕たちリベラルのほうが賢明ですよと教唆しているだけの代物だった。思想の別を気にしなければhanadaとかと大差はない。
五野井の次の発言を引用する。
ここには対比に見せかけた、五野井のすがめが見え隠れしている。右派的という修辞を二度重ねることで、読み手には後者のほうが、リベラル的なほうが良いという印象をつけさせる。この本の著者たちのターゲットとしては、そのほうが正しいだろう。売れるだろう。けれどこれは、品がない。三浦瑠璃や成田雄輔の扇動と大差なくなってしまう。
山上徹也のツイートから人となりを読み解くみたいな分析も結論ありきに終始して、そもそも人の書いたものから人のすべてなど分かるはずはないのだ。好いて何かを書く人ならばわかるだろうか。書かれたものにその人の本質は出ない。書かなかったことに、書けなかったことに、書きたくなかったことに、人となりは出る。他人の文章を読みながら、私はいつもその人が書いたことをなぞりながら、書かれなかった物事の輪郭に思いを馳せる。そういう批評を期待していた私にとって本書はじつに尻すぼみでつまらない一冊だった。
ただ、「失われた三〇年」とそれにまつわる説明は正しいし身に沁みた。私はもうじき30歳になる。どうやら生まれてからこのかた、ずっと失い続けていたらしい。
中高の社会の授業とかでは、まだ失われた20年とか甘く見積もって10年と習ったおぼえがある。それが知らないうちに10年延長していたわけだ。たぶん十年後には失われた40年になっているのだろうし、次は失われた半世紀とでも名指されているのだろう。そんな時代が続けば高齢者は集団自決などという文言が思い浮かぶのも腑に落ちる。得た世代と失った世代の帳尻を合わせろと叫びたくなる。私も30歳になったら年金が欲しい。そろそろ返せよ。どうせ貰えないので。
本書では岡崎京子「リバーズ・エッジ」という漫画の一節が繰り返し引用される。宮台真司以来、軟派な社会学の講義では必ず目にする文言。
いわゆる社会全体を包摂するような”大きな物語”が崩壊して、人みながめいめい個/孤として生きざるを得なくなった平成、アルマゲドンは来ない、戦争は起きない、核のスイッチは押されない、表向きは安穏とした平和、かわり映えのない日常を、しかしそれでも戦場であると喩えたよい言葉だと思う。大雑把な分析では皆が皆中流意識をもって安穏としていたのかもしれない。けれども実際を見てみればそこかしこにほころびはあって、誰もがそれに目をそらしていただけなのだと気づく。今を生きる私は後付けでそんな答えあわせをしている。山上徹也はそんなほころびの、目立った一つに過ぎないと。
もし今ここが戦場ならば、話は簡単だ。自分一人の命さえ守ればいい。今まで自分を傷つけてきた自己責任論を逆手にとる。普通の生活なら死ねばいいなんて通用しない。けれども今は戦時下だろう? 生き延びるためには、自分に仇なすものを殺さなければならない。失敗したら? 死ねばいい。駄目だったら死ぬだけの話だ。
山上徹也は成功した。戦時下だったらこんなもんスタンディングオベーションだろ。
けれども命は大切なのだ。喪われていい人命はこの世に一つたりともない。ミミズだってオケラだってアメンボだって安倍晋三だって生きていたんだ。そんな命を不当に奪った彼にどのような審判が下るのか、誰も知らない。
§ § §
『山上徹也と日本の「失われた30年」』では、山上が好んで観た映画として「ジョーカー」が挙げられていた。私はバットマンシリーズを履修していないのでネタバレを食らったらイヤだなあと思って観ずにしまっていた。けれど本書での紹介のされ方が面白かったので、観てみることにした。DC映画のアメコミはフラッシュとアクアマンとブルービートルしか知らないから、付いていけるか不安だ。
そうして二時間ほど観終わった。今までのDCユニバースからは独立した作品だと分かった。ヒーローなんていない。ひたすらな汚辱と自己嫌悪にまみれた一作で、DCらしい愛すべき安っぽさもあって、面白かった。ただ観てみて、これを材料に山上の心象風景を語るには無理があろうと思われた。リベラルの色眼鏡でジョーカーを批評するのは片手落ちだ。弱者男性とかインセルだとか、そんな決して他称してはいけないワード、自虐でしか使ってはいけない言葉を安易に振りかざしながら、「ジョーカー」を通して山上徹也を思索してみせる本書は、重ね重ね、不誠実の一言に尽きると思った。
はい、私はインセルでチー牛で弱者男性で非モテでキモヲタでアンフェでネトウヨです。今の四十代以下はうっすらと嫌中嫌韓な人がネットの影響で多いと書かれている。そうですか。はい、私はインセルでチー牛で弱者男性で非モテでキモヲタでアンフェでネトウヨで嫌中嫌韓です。アイヌ民族はいません高齢者は集団自決すべきです透析患者は悪です精神病はやる気がないだけです生活保護は甘えです在日特権は許しません沖縄は米軍基地の移転を速やかに認めるべきですトランス女性は女性じゃないです日本学術会議は極左の手先です日本保守党を応援しております女系天皇は認めません人文科学は不毛です同性愛に生産性はありません国が女を男にあてがうべきです
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