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関係を持とうとされる神

教会に通い始めのまだ求道者であったころ聖書のザアカイの箇所を異なる複数の機会を通して聞いたのを思い出す。最初は何を意味するのか表面的にも分からなかった。イエスと自分の関係が深くなるにつれ分かったのは、つまりあれは関係についての話だったという事。関係以下の関係を脱却した神と人の話。

ザアカイははじめイエスのことを一方的に聞き、一方的に見る。ザアカイは自身を主体としイエスを客体の立場に置く。しかし全知全能であり絶対的な善である神は、有限極まりない人間ごときの客体に収まるような存在ではない。神の子であるイエスもまた客体の立場に収められてよいような存在ではない。

だがザアカイはイエスがそのような存在であることは知らないので「誤って」イエスを客体として、自分の下の立場の存在として扱ってしまう。粗相を赦し、怒らず、罰しない王の王であるイエスは降りてくるよう呼びかける。主体でも客体でもない、対等な対話の相手としての関係に入る意図を表している。

ザアカイは当時の賤職として世間から関係を憚られた取税人である。イエスは世間体など全く気にせず公然と世間の目の前で会食に誘い、関係を結ぶ意図があることを示す。ザアカイは関係を持とうとするイエスの意図を受け入れる。神の子に赦され、神との関係の修復の糸口に立つ。

モーセと神の出会いは「神と人とのあるべき関係を履き違えた人間の粗相を見逃し、本来あって然るべき怒りや罰をもってではなく、あるべき関係の提示をもって答える」という点で、ザアカイとイエスの出会いに似ているように感じる。履物を脱げ、木から降りよとはじめ、望ましい態度と関係を教えている。

モーセがはじめて神に出会った時、神が畏れ多くも名を呼ぶことのできる立場の存在ではないことも知らずに、名を名乗らせようとしてしまうという暴挙に、神は怒りや罰ではなく、「わたしはあるというものである」と、答えにならない答えで答えることで、モーセとの関係を持とうとする意思を示された。

名付ける、名を呼ぶとは、把握可能な存在として認識下に置く対象として扱うということであり、自分を対等か上位の存在に、相手を対等か下位の存在にするような関係を作ることだ。

人に全知全能の神を把握することはできない。

神は「そういう神と人の関係」を人にとって健全なものとはみなされなかったのだろう。

人は神の全てを知り把握することはできない。神の一部なら把握できる。その有限の一部に神が何を選んだのか、それが人となって天から地に来られた神の子、イエス・キリストだった。人が知りうる神のご性質の中で人にとってもっとも大事な部分を表した存在がイエスだったのだと思う。

全知全能でこの世界を創造した父なる神は人が呼ぶことの許可された名は与えられなかった。畏れ多くも名など呼べる存在ではないほど高貴で偉大な存在だから。ただそのような高貴な存在がしもべのように自分を卑しくしへりくだって名を呼べる者として人のいるところまで来てくださった。その名がイエス。

本来なら名を呼び合う対等な関係など生まれ得ない断絶した存在同士である神と人。その断絶を越え、イエスを人に送ることで神は人と関係を持とうとする意思を示された。イエスの示した神と人とのあるべき関係こそ、愛、それも敵を愛し友に変え友のために命を捨てるほどの愛だった。

「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」という言葉は一見あまりにもあっけなく単純に見えるが、自分と神との断絶した関係に心を痛め、十字架で身を犠牲にしてまで、神と人の関係をつなごうとされた神の子の犠牲を受け入れる前提に立たなければ、イエス・キリストの名を呼ぶことはできない。

イエスとは何者で何を意図し何を成したのか。その人生の目的は何で、その全生涯と全存在をかけて何をしようとしたのか。それを知った者がイエスの名を呼びたい、呼ぶことによってイエスと自分との関係をつくり始めたいと願う。イエスは自分を救いたかった。人を救いたかった。神との断絶=罪、死から。

イエスの名を呼ぶ者は、イエスが自分を救うために持てる全てを捧げたという事実を受け入れた上でしか、呼ぶことができない。名は存在を表し、人の存在は何に人生をかけたかで決まるからだ。イエスが自分に何をしたいのか知り、イエスが自分にしようとすることを受け入れ望む者だけが、イエスの名を呼ぶのだ。

人とはまるでことなる上位の次元におられる善であり全知全能である神が、はるかに劣る人と、関係を持とうとしておられる。神が「関係を持とうとされる神」であることをイエスを通して知り、その意図を受け入れて関係に入る選択をする者が、イエスの名を呼び、神との関係の絶望的な断絶から救われる。

神との関係なしには、富も名声も人のうつろいやすい愛もその他のどんなものも、自分を根本的に満たすことはできないと、気づいた者だけがイエスの名を呼ぶ。人が神にかたどられ、神を求め、神に感謝し、神のひとつひとつの言葉によってのみ、本来の意味で生きると気づいた者は、関係の回復を求める。

自販機に小銭を入れるように神頼みをすればゴトンと願ったものが自動的に落ちてくるなら、関係など存在しない。それを関係とは言わない。互いに意思ある存在として認め合い、尊重しあい、意図を汲み、強制せず、相手の自由を重んじる時、成立するのが関係だ。神が「自分の都合の良いように想像したとおりの神」ではなく「関係を望む神」だと認め受け入れるのか。

神が人に望んでおられる関係は重い。軽々しく扱えるようなものではない。その重さから逃げる自由はある。神がその自由を人に与えたからだ。関係を結ばない自由だ。真の関係は強制ではなく、自ら望み欲してこそ成立するものだからだ。イエスの名を呼ぶ者は、それ以外の全てをイエスの価値以下とする。

その名の他に我々人類が救われる名は与えられていない。我々を救うために十字架で死に、復活した神の子の名。その名を呼べば、神との断絶した関係をとりもってくださる唯一の方の名。絶望から目を背け自分を騙し偽りの満足で自分を紛らわす人生から自分を救ってくださる救い主の名。イエス・キリスト。

画像:Adobe Firefly

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