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211.教祖伝逸話篇に載っていない教祖の逸話「かたいかきもち」


はじめに

 みちのだい33号に「古老より聞いたはなし」として、当時の婦人さんが自分の祖父母から聞かせて頂いたお話が沢山載っていました。

 まだ稿本天理教教祖伝(以下逸話篇)が発行される前ですので、逸話篇に載っているお話が沢山出てきます。

 その中に、逸話篇には載っていない教祖の逸話がいくつも出てきますので、何回かに分けて紹介したいと思います。
(今回は2本目です)


かたいかきもち


辻芳子が聞いたお話

「これを見て思案しなされ、そして、これを食べてみなされ」
 と、仰せられて、教祖は祖父忠作に、お歌にそえてかきもちを下さいました。

 それは、明治7年2月22日の夜、祖父が歯の痛みに耐えかねて、お願いに上がった時のことでした。



二二の二の五つにはなしかけ

よろづいんねんみなときゝかす

たかやまのせつきやうきいてしんじつの

神のはなしをきいてしやんせ


にち〳〵に神のはなしをだん〳〵と

きいてたのしめこふきなるぞや

 

このお歌とかきもちを頂いたものの、祖父にしてみれば、
「歯の痛いところに、かたいかきもちを下さるのはどういうわけであろう。食べられる筈がないのに……」
と、一瞬とまどいました。
 その頃の祖父忠作は、昼は多くお救けに廻り、または家業の畑仕事に精を出し、夜になるとおやしきにうかがい、教祖から、かずかずのお話を聞かせて頂くのが習わしでありました。

 教えを聞いて10年、その頃の祖父には、やはり、さまざまな世上の話しに心をとらわれることもあったのでしょう。心迷うこともあったのでしょう。

たかやまのけつきやうきいてしんじつの

神のはなしをきいてしやんせ


にち〳〵に神のはなしをだん〳〵と

きいてたのしめこふきなるぞや

 

教祖には、これ等のお歌を通して、神道や仏教の話しに耳傾けることなく、親神様の仰せ下さる真実の教に、ひとすじに進むようにと、祖父の信仰を促されたのでした。
「迷いをとれよ」
との思召であったのでした。
 
 お言葉を静に味わいつつ、頂いたかきもちを口にしたとき、不思議にも、歯の痛みはすっきり去っていたと言います。
 
 祖父は、お歌の理をかみしめるとともに、かきもちのうまさを、心から味わったことでした。そこには、言いしれぬ、温かい親心の姿が眼に見えるようです。
 また、祖父忠作は、こだわりの無い、正直な、さっぱりした気性の人でありましたが、反面、頑固でいちずなところがあったようです。これは美点でもあるし、同時に欠点とも言えるでしょう。

「お前の心はこのかきもちのようにかたいよ」
 教祖はそう仰せられているのではないでしょうか。
頑固さをとり去って、神の言葉をかみしめて、素直に通れよと仰せられているのでありましょう。

 いちずな気性であったからこそ、あの、書記の苦難の道をも、通り切ることができたと言えますが、また反面、頑固故に、周囲の人々に、多くの苦痛を与えていたこともあったかもしれません。

 かきもちに思召を託して、祖父の気性をいましめられた、教祖の親心を思うとき、
「謙虚になれ、謙虚になれ」
と私は自分に言いきかせます。


「かきもち」と「お歌」を渡しただけ


このお話で注目したところは、「歯が痛い」とお願いにきた辻忠作氏に対して、教祖は「かきもち」と「3つのお歌」を渡し、
「これを見て思案しなされ、そして、これを食べてみなされ」と、
忠作氏に「答え」を与えるのではなく「問い」を与えたということです。

前々回の記事で「これからの宗教は『教え』ではなく『問い』が大事になってくる」ということについて書きましたが、そういう視点を得てから教祖のひながたを見てみると、すでに教祖は様々な問いを人々に提示しているという事実に、ただただ感服させられています。

前々回の記事はこちら


辻忠作氏は「教を聞いて10年」とあります。

当時の信仰歴10年と今の信仰歴10年では、全然価値が違うと思います。

そんな、信仰の土台が固まっている辻忠作氏に対して、教祖は「問い」を出されたというのも、人々の成人に合わせて諭されていた親心が想像できて興味深いです。
(相手の心に合わせて、最も適した形のお諭しをするということは、まさに神業と言えるのではないでしょうか)

ここまで推察していくのは、無粋かもしれませんが「かきもち」という食べ物と紐付けられたのも味わい深いものがあります。

まず一つは「歯が痛い」と言われた辻忠作氏に対して、「やわらかい饅頭」ではなく「固いかきもち」を渡されているということです。

もし「やわらかい饅頭」を受け取った場合は、

「教祖は歯が痛くても食べやすい、柔らかいものを下さってありがたい」
と、教祖の親心に感謝するものの、やわらかい饅頭は「食べるために下さった」のだと納得して、そこから何か考えようという気にはなりません。

「かたいかきもち」だったからこそ
「歯の痛いところに、かたいかきもちを下さるのはどういうわけであろう。食べられる筈がないのに……」
と、戸惑うわけです。

そしてただ食べるだけの為に「かきもち」を下さった訳では無いことに気づいた時、
「それではこの『固いかきもち』に込められた意味はなんだろう?」
と、
教祖の神意を考えることに繋がっていきます。

もう一つは、人は「食べる事」により様々な感情がわき上がることです。

昔のドラマでなんかで、息子が田舎から都会へ上京する際、電車の中で母の作ったお弁当を食べながら涙するシーン等よく見た覚えがありますが、「食べる」という行為を通して親心を感じるというのは、個人差はあれ、古今東西普遍的にあるんじゃないかと思います。

祖父は、お歌の理をかみしめるとともに、かきもちのうまさを、心から味わったことでした。そこには、言いしれぬ、温かい親心の姿が眼に見えるようです。

とあるように、かきもちのうまさを心から味わうことと、温かな親心を一層感じられる事には、無視することのできない繋がりを感じさせられます。


後半は辻忠作氏or辻芳子氏の悟り


このお話の後半に出てくる
「迷いをとれよ」
「お前の心はかきもちのようにかたいよ」
「謙虚になれ、謙虚になれ」

は、いずれも辻忠作氏or辻芳子氏の悟りです。

当事者の二人にとっては正解であっても、「かたいかきもち」と「お歌」は当時の辻忠作氏の状態に対して与えられた御言葉なので、もし同じ御言葉を頂いてもあっても、受ける人が変わったら悟りは変わってくると思います。

人はついつい「答え」である「悟り」の部分に注目してしまいがちです。
もちろん、その悟りにより御守護頂いていることを思えば、大いに参考にすべきだと思います。

しかし、もっと大切なのは、教祖が投げかけられた「問い」に対して、「自分はどのような答えを出すか(悟か)」ではないかと思います。

全く同じ心の人間は存在しませんし、進んでいる道も方向もバラバラです。
ですから、自分の進む方向は自分で決めるしかありません。

自分で選んで歩んだ道は、自らの血肉となり容易に忘れないものです。

こういう視点で教祖の逸話を読んでいくと、教祖は全てを説明せずに、最後の一欠片は先人自ら悟っていくよう導いておられるものが、いくつもあることに気付きました。

1人1人の心の道は違うからこそ、自分が進むべき道はどのような道なのか、身上・事情を通して考えていくことが大切であると、改めて感じた次第です。



おまけタイム


どーも!何日間か連日更新しようと思い立った男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

久しぶり連日更新しようと思い立った理由は、書くネタがあるということと、毎日更新していたときの成長スピードが尋常じゃなかったと実感するからです。

ここ最近、よく眠れてるし、体調も良くなっていて良い感じなのですが、毎日更新していないとぬるま湯に浸かっている気分に陥ってしまい、逆にストレスを求めている自分がいます。

もしかしたら僕は変態なのかもしれません。

なので、愛しのストレスを求めて、とりあえず土曜日まで4日間連日更新したいと思いますので、どうか毎日読みに来て下さい(切実)

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!



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