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『虐待児の詩』 新潮文庫の一冊

「夏の夜の夢」(真夏の夜の夢)


ここで語られている「夢」は、文字通りの夢ではない。
いや、むしろ僕らが解釈している文字通りの夢も、現実だと信じて疑わぬ白日の出来事も、同じ夢の延長に過ぎないと云うことを、シェークスピアは言いたかったのかも知れない。

伝染病による劇場の閉鎖、劇団の解散、貧困・・成功からどん底をくぐり抜けて復活を遂げたシェークスピアが、不遇の時代を、夢のまた夢のように感じていたのではないだろうか。
劇中に劇団が演じている様などは、きっと、書いても上演されないシナリオや貧困下での劇団員達を思いながら書き連ねられたものだろう。

通常『夏の夜の夢』は、喜劇として紹介されているが・・

此は、決して喜劇などではない。

彼が体験した現実を、夢見る如くの恋愛を題材にして、白昼夢と寝てみる夢に微塵の違いも無く、環境によって移ろい行く人の心の様を描き出したハッピーエンドの悲劇なのだ。

『夏の夜の夢』
それはシェークスピアにとって単なる喜劇ではないのだ。

そして、最後に締め括られるパックの言葉はシェークスピア自身の言葉であり、妖精パックこそが、唯一物語を改編可能なシナリオライターであるシェークスピアなのだ。

コロナ禍に於ける、現代ですら悲惨な状況が続いた・・シェイクスピアの時代の伝染病禍を潜り抜けて復活したシナリオライターが、喜劇の仮面を被せて世に問うた、抗えぬ人の世の悲劇だ。

シェイクスピア作品の悲劇が能だとすれば、この作品は狂言とでも云うべき作品なのかも知れない。



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