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北海道のむかし話21 門昌庵物語

門昌庵物語(もんしょうあんものがたり)-八雲町熊石ー


熊石

八雲町熊石は平成合併によって太平洋の八雲町と一緒になりました。
蝦夷の頃の松前藩の領土は、日本海は熊石、大平洋側は八雲が日本の最北部で、それぞれ関所がありました。


松前家が、エゾ島を治める島主として豊臣秀吉や徳川家康から認められたのは、武田信広から五代目にあたる慶広よしひろの時代です。
この慶広は、福山(今の松前町)に殿様の住むのに相応しいように館(まだお城ではありません)や町を大きく立派にしました。
この慶広から、更に五代目(十代目)矩広のりひろの時に、門昌庵の事件が起きました。


門昌庵の門

それは、今から300年ほど前のことになります。松前家のお墓を守る法憧寺(ほうどうじ)に、柏巖樹禅師門昌(はくがんほうじゅぜんじもんしょう)という、学問も深く、行いも立派なお坊さんがいて、人びとから生き仏さまと敬うやわれていました。

このころは、松前家が一番金持ちな時で、しかも、矩広が若かったため、良くない家来たちが殿様に付け入って、自分のためを図り、政治がたいそう乱れました。
ある時、お城に仕えていた美しい女の人が、矩広の無理な言いつけに従わなかったため、斬られそうになったので、こっそり城を抜けだし、法憧寺に駆け込み、門昌の衣にすがりました。

可愛そうに思った門昌は、

「女の命を助けていただきたい」

と、願いでたところ、矩広はたいそう怒って。

「門昌は、坊主でありながら、女を寺に入れているとは、もってのほかである」

といって、法憧寺住職の役を辞めさせ、柏巖禅師という坊さんの位も剥ぎ取り、罪人として、福山から40㌔も北の熊石という日本海の寂しい漁村へ、追い払ってしまいました。

熊石へ追われた門昌は、矩広を少しも恨まず、荒れ果てた小屋で、一心にお経を読み、みんなのために祈りながら、仏の道を修行し続けました。
ところが、門昌を追い払った後、矩広は病気にかかり、床につくことが多くなりました。

悪い家来たちは、

「これは、門昌が熊石で殿様を恨んで、祈り殺そうとしているのに違いありません」

と、申し上げましたので、この言葉を信じた矩広は、

「門昌を討って、首を必ず持ってくるように」

と命じて、討っ手を向かわせました。
波の荒い熊石の破れ小屋に、思いがけなく大勢の武士をむかえた門昌は、矩広の書付と、討っ手の口上を聞き終わると、少しも騒がず、数珠を揉みながら、大般若経一巻を読み上げました。すると、小屋の側の小川が、物凄い勢いで、逆さまに流れだしました。

お経を読み終えた門昌は、討っ手の武士たちを振り返り、

「わたしは今、罪もないのに討たれるが、私の首は、必ず福山に届けて、殿のお目にかけよ。途中、決して、どこにも立ち寄ってはならぬ」

といって、首を差し伸べました。

門昌の首を討ち落とし、首桶に納めた討っ手の一行は、この首桶を守って、福山を目指して夜を日についで急ぎました。
ところが、江差を過ぎて上ノ国の天の川に差し掛かりますと、川水が溢れ大水となり、どうしても渡ることができません。
そこで、一行は仕方なく江差に引き返し、順正寺に宿をとり、とろとろと眠りこけた夜半のことです。カタリと音がして、首桶が開いたと思うと、両眼を見開いた首が、にょきっと飛び出し、口からくわっーと、真っ赤な炎を吹き上げました。
すると、見る間にその火がめらめらと本堂に燃え広がり、あっという間に、順正寺の大きな建物が炎に包まれ、瞬く間に、焼け落ちてしまいました。

しかも、不思議なことには、この火の中で、首は少しも焼けこげず、目を見開いたまま、睨んでいるではありませんか。
あまりの、物凄さに肝をつぶした討っ手の者は、その恨みを恐れ、福山へ急いで知らせましたので、館(城)でも大騒ぎとなりました。
矩広も、自分の考えの足りなかったことを後悔し、いろいろ相談の末、

「首は城に持ち帰らずに、熊石の門昌の庵(小屋)のそばに埋めて、丁寧に弔うよう。また、門昌の位も元にもどして、怒りを鎮めるように」

と命じ、首を小屋のそばに埋めて、丁寧に弔って寺を建て、その名をとって「門昌庵」と名付けました。


門昌庵

それでも、城中で不思議なことや、変わったことが続くので、矩広は、自分で仏画を描いて法憧寺へ納めたり、門昌の霊を慰めるために、城中で、お神楽をしたりしました。

しかし、この後も、変わったことが或るたびに、必ず門昌の霊が城中に現れたといいますし、城主が代わるごとに、緋の衣をつけた門昌の姿が、その枕元に立ったといわれています。

このため、代々の殿様の心づくしは特別で、門昌庵を立派に改築したり、250年に渡って、春秋2回の法事が続けられたということです。



この時、川下から川上に流れた川は、いまでも「逆川」と呼ばれ、血の流れたあたりには草が一本も生えないと、言われています。
また、門昌の恨みで討っ手に向かった者の子孫には、七代まで、健康な子どもが育たなかったと、伝えられています。

昭和になってから、松前町で大火があり、町役場も焼けましたが、この時、役場の火の粉が、はま風に煽られ、数町離れたお城の天守閣に飛び火し、日本で一番最後に作られた松前城が、門だけを残して、焼けてしまいました。
この時も、町の人びとの間には、

「あの日は、門昌の命日であった」

という噂が、流れたと伝えられています。





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