見出し画像

お味噌は素敵なおくりもの

「小さい頃から家で音楽が鳴っていたので」と、ミュージシャンがインタビューで自分のルーツを話していると、やっぱりそうかと合点がいく。この人の根っこにはちゃんと音楽が刻み込まれているんだな、と。

今、味噌作り教室を行う私も「味噌作りは小さい頃から嗜んでおりまして」と言えたら低い鼻を少しは高くできるのに、あいにく市販の味噌を買う家庭で育った。鼻はあいかわらず低いままだ。


味噌作りは10年前、人生が止まりかけていた時に出会った。
準備は大変、手は汚れる、できあがるまでに時間はかかる、そんな三重苦みたいな味噌作りをやってみたら、あらら案外楽しいぞ・・・
それでトントントンと弾みがついて、味噌を学びにあちこち行った。今思えば、たまたま参加してみた味噌作りがギチギチだった歯車をカチリと動かしてくれた気がする。

昔は試行錯誤しながら作った味噌も、味も色も今は自分流に作れる。
手作りの味噌は他のよりおいしく感じるし、何より自分の体にしっくり来る。 

「手前味噌」とは本当によく言ったものだと思う。困ったことに良いところしか見つからない。
そんな有り様。



さて、2月3月と前からご縁のある小学校で、親子味噌作り教室を行った。
コロナを挟んでいたので実に4年ぶりになる。

リピーターさんとの再会があったり(低学年だったお嬢さんもすっかりお姉さんに)、
ふだん家でお味噌汁を食べない子が試食の味噌汁を完食・おかわりしたり(お母さんの驚いた顔が忘れられない)、
最初は緊張していた不登校の子も、だんだん笑顔になってきたり。

味噌作り教室では、毎年心温まる出来事にたくさん出会う。




今回の教室でも、最初に材料の味や手触りを感じてもらう時間をとった。
味噌がどんな材料からできているか、どんなふうに発酵していくのか想像してもらうためだ。


麹の味に不思議そうな表情を浮かべる親子あり、
塩のしょっぱさに顔をしかめる子どもあり。

茹でたてほかほか大豆は触るやいなや「気持ちいい〜」と、みんなの表情は大豆と同じくらいホクホクしていた。



作業中に主導権を握るのは子どもで、大人は助手に回る。ほとんどの作業を子どもが行う。

大豆をつぶすところになるとみんな無言で一心不乱。
教室中、静かな熱気が満ちている。
こうなるとうっかり言葉もかけるのもためらわれ、ときおり言葉をかけたとてみんな大豆の方を向いて無言でうなずくのみ。
誰も彼も、超が付くほど真剣モードなのである。




作り終えたあとはお楽しみの試食タイム。
前年度に同じ配合で仕込んだ味噌を使ったお味噌汁を、みんなで味わう。

味噌作りは体力仕事だから、お味噌汁は疲れた体に沁み渡る。
気持ちしっかりめの味にして、出汁は昆布で大豆の煮汁と少し割って甘味を出す。

ニコニコ顔でお味噌汁のおかわりに並ぶ子どもたちを見ていたら、本当に美味しいお味噌汁なら鶏の唐揚げにだって負けないな、そう思った。

たかが味噌汁、されど味噌汁。
大根・にんじん・油揚げ・エノキだけのなんてことないお味噌汁は「美味しい!」と大人気だった。


子供が列をなす




あのときの味噌作りの経験が、何かを作る楽しさを私に思い出させてくれた。

たった3つの材料を混ぜてこねて、1年間置いておく。すると味噌が「できて」いる。
自分で作ったような、でもほかの見えない何かが作ってくれたような。
そんなふうだから、完成したものを前にすれば狐につままれた気もしなくもない。
それほど「作る」と「できる」の境界は曖昧ではあるけれど、そこに大切なものが隠されている気がする。

「冥利(みょうり)」という言葉がある。
意味は「知らず知らずの間に神仏から受け取る利益や恩恵」。
きっと、できあがった味噌は冥利そのものだ。

食事の時、そっと手を合わせる。
お味噌汁の味はいつもと変わらない。
味噌は冥利。
そうすると「いただきます」「ごちそうさま」が、いつもよりすこしだけ違う響きを持って聞こえてくる気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?