2017年10月・11月・12月
過去の自分が残していた文章たちです。メモを整理している時に発掘しました。
月今宵。
驚くほど月が綺麗に見えた。自転車を漕いでいた僕は一瞬しか見えなかったその月をもう一度見上げて思った、「月は僕が泣くのを待っているんじゃないだろうか」と。
一際輝く月は、虹に囲まれるようにそこに在った。空を裂いたような直線的な雲の間だけに月の光は滲んでいた。ここからあそこの全ては見えない、そう思ったと同時に、なんて明るいんだろうと思った。空を明るく照らしているほどの光。太陽より眩しいと思えた。きっと、夏のように晴れた昼空を見なくなったからだろう。夜の空は透き通るように藍色が広がっていて、どこまでもどこまでも夜は美しい、なんて考えた。
「泣かないよ、泣くほどの事もなかったよ」と心の内で月に向かって言う。月からすれば僕なんて儚いのかもしれないし、また月に感情があると考える時点で人間の方が劣っている気がする。少なくとも僕は月より劣っている。「劣っている」と思う基準が何かは明確に分からないけど、僕より月の方が綺麗だから、きっとそうだ。
哀しい。こんなに自分自身を哀れむのは、まだ自分が一番可愛いからだと思う。僕は未完成で、未熟で、歪だ。おまけに捻くれている。もう真っ直ぐに生きられないんだろう、一度曲げた針金は元に戻そうにも戻しきれない。
潔く自分を投げ棄てたり、大事に自分を守り抜いたり。決断をする事は簡単なのにそれを人に伝えるのが驚くほど下手だ。僕は不器用だった。器用だと言われた過去は世辞だったんだと、この歳で気が付くなんて笑ってしまう話だ。もしかしたら、過去は器用だったのが、何かの拍子で不器用に変わったのかもしれない。器用だったからこそ不器用になったのかもしれない。そんなふわふわした考えで生きてるぐらい、僕は能無しだ。
動かない。
目前の景色は変わりない。動く事はなく、ただ「いつも」で言い包められる時間や物や生活。
対して、人が変わるから「いつも」という言葉が在るように、人が移ろうのは簡単な変化であると僕は思う。場所や感情、目線や居心地、動作や仕草。
「いつも」に「慣れる」と、人は変わりたくなるのかもしれない。変わろうとしない人も変わらないまま居る事は出来ず、そこで息を吸って吐いている内は、経験を通して変わっていくものだったり時間が過ぎて老化していくものだったりするだろう。
誰かの価値観でこの世界に名称が付けられたり度合いを測られたりする。何にも優劣が付き物の平等主義は、まさに矛盾する世の中と人間の醜さを謳っている。
嘘に塗れて作り上げられた優秀な人材ほど面白味に欠ける人間はいないと思う。上手く出来ていない人間が味のある奴だなんて言いたくもないけれど、少しぐらい未熟な方が人生を楽しめるだろう。逆を言えば、完璧な人間は努力から得た知識で世界の理屈が解るだろう。どちらにも良い部分と悪い部分がある。
ひとつの何かが良いも悪いも持ち合わせているからこそ評価があり、そこから優劣が付くとすれば、存在に良し悪しがあると解釈している時点で、全ての優劣の始まりは平等を夢見る人間自身だと分かる。
空飛ぶ少年。
僕はピーターパンになれない。夢を持って生きてきたはいいが、それを社会に持ち出すと笑われる。大人になりたくない僕はピーターパンになりたかった。大人なんて最低でつまらない。人間である限りは大人になってしまうものなのかも知れないけれど、夢を捨ててまで大人になんてなりたくない。
聾。
人の自慢話も、人を褒め称える話も、そこに自分を投影して自惚れている話も、聞きたくない。
上からずたずたに言われても問題はないのに、下からずたずたに言えばクビやら退場やらと指を刺される。「平等」に「上」や「下」がある時点で、ただ「主義」という言葉のまんま貫かれるほどの事ではないと、そう言い表したような上下関係のある今の社会が大嫌いだ。
いつからか大人になった兄弟や友人は誰もが、いつからかその上下関係に従順になってしまったようだ。誰もが、年下に歯向かわれる事を否としている。対等にやり合うなら歯向かわれる事も認めていいとはならない世間一般の「常識」が僕は大嫌いだ。
頭から血を流して、へらりと笑いながら「何を見てるんですか」って言えばいいんだろうか。はたまた、壁に頭をぶち付けながら「とても楽しく思っている」と喚けばいいんだろうか。
泥を飲み込んだみたいに、毎日肩が重くなる。それは日に日に増して、乾いて取り除けなくなる。
静かに眠れない。夢に堕ちる前に、夢を見るな、と止められるみたいな大きな痙攣で瞼を閉じていた事に気が付く。
醜くなった身体に綺麗な服は似合わない。汚い服を好んで着るような神経の持ち主は、綺麗に生きようなんて考えを持ち合わせてはいない。
「捻くれている」と言われたから腐ったんだと思う。可愛い程度の心配性は鬱を拗らせる考え過ぎを呼んだ。おまけに自己語りと記録が好きと来た。一度闇に潜れば、そこから出るのはずっと後。数を重ねる毎にその闇に入り浸る時間は長引いていく。
寝てしまえと授業中に寝ていた学生が起きる時はこんな風なのかな。
僕は都合よく笑顔で相手をする犬じゃない。
無題
飛んでいけたらいいよねって、そうあればいいよねって。
僕たちはまだ息をしているし、僕はまだ死にたくない。
「無気力」に溺れていたとしても、僕は「死ぬ」まではまだ行ききれない。
なんて、
馬鹿は遠吠える。
仲間なんて、来ないけれど、どこかで僕を応援する存在に向かって、ただ叫ぶように生きる。
変わる。
お帰り、只今。しかしすぐにまた出発をした。そこに居た痕跡を少しずつだけ残して。進んでいるのか、戻っているのか。道を行けているのか逸れているのか。
静寂。
自重しない独り言や、控える事を知らない歌声が聞こえる。好きな子にLINEを返すのを怠っている。教習の進み具合を毎日のように問われて、毎日のように「無理」や「下手」や「不合格」と口にした。
音は匂いに似ていて、上から重ねても消える事がない。食器を雑に扱う音が響く台所では、まるで誰かと話をしているような独り言が聞こえる。僕が声を出したって、好きな音楽を流したって、それを消したいと言うかのように騒音は大きくなる。誰も対抗して欲しいなんて言ってないのに。気が狂ってくるけど、耐えて家の中に居座っている僕は悟っていると言うか、怠けてると言うか、それなりに懐が広いと思う。なんて、自分で自分を褒めないとやっていけない。とうとう家も外も嫌いになってしまった、この時がきてしまったのだ。
腹立たしいと思う事に焦点を置いてしまうと、分かりやすくじわじわと苛立ってくるのが分かる。高校を卒業してから、自分が短気になったと思う。いや、母の方が酷くなってるだけなんだろう。そうでなくても、そう思いたい所だ。
母は人から接触されるのを待っているだけなんだろう、だから無理なんだ。仕事も人付き合いも長く続かないんだ。それを僕がひとつの考えとして発言した所で「そんな事は関係ない」と一蹴され、おまけに自己肯定感を削がれた事に被害者ぶって自らの世界はどうのこうのと語るんだろう。聞き飽きた僕に気付いているのか否かは訊かなくても察しはつくけど。
僕は黙ってるしかないんだろうか。全て投げ出す、なんてのは安易だったんだろうか。
昨日、兄が「逃げたくなったら逃げてきな」と一人暮らしを始めた家を教えてくれた。この屋根の中で生きた4人、誰がイかれてるのか、誰が普通なのかが分からない。めっちゃ汚い食べ方と咀嚼音を晒す母の事を、僕は一生許さないつもりだ。スパゲッティの麺を口で千切るとか。巻いて食う物なのに。まず一口でいける物なのに。空腹が満ちれば、苛立ちは徐々になくなるけれど、それは空腹のせいか、母が黙る珍しい時間が流れるからか、どっちだろうね。
父親は母を更年期障害と称した。そうでもそうじゃなくても、僕はこの人に死ぬまでいつまでもいつまでも追いかけ回されるようにずっとずっとずっとずっとずっと当たられるのかな。僕が壊れた時はどうなるんだろう、分かりやすく僕が壊れた時はこれでもかと思うほどに母を虐めたい。生まれてから支配された時間も全てを思い知ってもらうために。
考察を忘却した脳味噌に賞賛を。嫌味だけ聞き逃さない耳に聞こえない程度の声で罵倒を。気付かない振りを貫く顔に逸らした視線を。母の愚痴じゃんな、これ。
脳に響く多方面からの思考がぶつかり合って騒がしい。いつになれば静寂は訪れるのか。待つ事も出来ずに自室へ逃げ、それでも外からの犬の吠える声や夜道を歩く人の声が聞こえる。中でも、蛍光灯の白い光が一番煩わしい。
鬱になってきたので文豪になりますね。
騒がしい人が騒がしい理由を、僕は理解した気がした。
彼らは虚無を避けたがっていて、ふと感じる「どうして生きているのか」という人生の議題に悩まさそうになる時に、敢えてその議題から目を逸らすのだろう。孤独を感じたくない人、他人を信じない人に騒がしい人が当たるんじゃないだろうか。
騒げば嫌でも他人は「それ」が目に付く。「ここに居るぞ」と言わんばかりに声を発信する、まるで災害の警告音のように。
嗚呼、なんて騒がしいんだ。黙るとか静かに動くとか出来ねーのか。苛々する。熱い飲み物で舌を焼いたら、僕のこの苛立ちも少しはマシになるのだろうか。否、騒がしい奴が熱い飲み物を飲んで舌が火傷すれば、いい加減に黙るんじゃないだろうか。でもやっぱり、そういう奴に限って自分が可愛いから、ちゃんと冷まして飲むんだろうよ。いっそ、冬が近付くこの寒さに孤独を自覚して消えろ。それか自己肯定感と自己存在意義を消滅させてくれ。
静かになるのは、液晶画面と対面してる時だけ。話す声が大きけりゃ聞こえる声は小さい。騒がしい人は自分に自分の声を響かせて生きるんだ。そうして自分は一番だとどこかで思い違うんだろう。
僕の邪魔をしないでくれ。人と人が共存している事、人はそれぞれの感覚を持っている事を記憶し、主観だけで生きるべきではない事を理解しながら生きてくれ。頼むから。
僕は、この狭苦しい世界で生きている。もっと広く世界を見る事が出来れば、あの騒がしい人の事も、檻に閉じ込められたようなこの場所も、嫌だと思わなくなるのだろうか。
全て投げ出したくて、逃げ出したくて、逃げても宛てが無いとどこかで思い込んでいる。行動する力さえ無い。自己嫌悪に陥る。誰かや何かに当たれるほどの強さも無い。誰も何も壊したくない。僕は弱い人間だ。それから、生意気に「死にたい」と嘆く。
辞めよう、と決意するのは何度目だろう。それも分からず、また、繰り返すのだ。
怒りのパンツ。
もういい。もう僕は何にも干渉しない。だから誰も僕を干渉しないで。汚れたパンツを毎回洗えって言われるのも煩わしい。履けたらいいし、それが用途を成していなかったら捨てればいい。そうだろう、人の物はそうやってすぐ捨てれるんだから。パンツなんか僕の大事なものじゃない。勝手に捨てればいい。僕は僕自身が死んでも構わない。そう無茶をして死ぬぐらいなら死んでいい。楽しめて己の好きな事が出来ていればそれで、それだけでいい。大切な物を大切にしていればいい。それが出来てたらオッケーだ。誰かがそれを否定する事なんて無い。
一人になりたい。
ごみ屋敷の中で、息をしている。慣れたように世界を見捨てている。命までも、捨ててしまえそうだ。
初めから終わりなんてなくて、僕の世界は続き続けている。生まれたのが始まりだとすれば、きっと死ぬまで終わりが来ることはない。
幸あれと願われたらそうなる、なんてことはなく、哀しくも世界は不幸という言葉を存在させている。
ああ神様がいるのなら。
願うだけなら誰にでもできる。
鼻歌が止まらない。
自分とは違う誰かになれたら、きっと苦労しない。それは、人格が増えるのと少し似ているのかもしれない。
僕が何かに成り切って生きたとしよう。その僕は側から見たら僕で、僕自身から見たら僕じゃない。成り切っている点を気に入らない人は苦しむ。成り切っている点を楽しく思える人は愉快だろう。僕はその愉快になりたい。
僕は自分自身を素直に出して人と接する事が難しく思える。沸いたやかんのように、身の内や心の内を吹き出してしまえば素直に見えるんじゃないだろうか。そもそも、自分がどこを隠していて、どこを正直に答えているのか、なんてのは自分で分かるはずがないと思っている。
中の物をぶち撒けるのが素直と言うなら、内臓でも批評でも思った通りに吐けばいい。でもそれをした時、人は高確率で身を引くのだ。まず素直にやってるなんて褒められる奴は素直じゃない。明るくて答えが真っ直ぐで気前がいい、と説明できる性格というだけだろう。受け入れられる性格、頑張り屋や真面目が素直だとは思わない。
皮肉でも素直という表現が使えるはずだ。それをどれだけの人間が概念として置いているのか僕は問いたくなる。絶対に問う事など無いと思うけれど。
僕は僕の理想がある。僕がこうなればかっこいいと自分が思う点が沢山ある。その理想の自分になろうとするのは成り切る事でもあるはずだ。それじゃあ、自分に対して目標がある人はきっとどの人でも誰かに成り切っているわけだ。自分に成り切っていたり、その性別に成り切っていたり、その年齢に成り切っていたり。若作りをするばばあなんてのも、若い自分に成り切っていると言える。優しい性格になろうとしている男子学生も、自分に成り切ってると言える。そんな風に僕は思う。
誰も変身しないわけじゃない。制服を着て、スーツを着て、衣装を着て、化粧をして、顔を洗って、髭を剃って、靴を履いて、腕時計を付けて、電車に乗って、扉を開けて、ラジオ体操をして、と人は何かのタイミングで変身している。誰もがどこかで変身している。
変身前後に、あまり変わりがない人だっているはずだ。それは変わりがないように見えるだけであって、少しは気とか力量とか精神とかが変わっているだろう。誰もが変身するはずなのだから。
僕は少しだけ、みんなよりも分かりやすく変身したいだけだ。たったそれだけの事だ。僕は自分を曲げたくはないし、いつ命が絶えるかも分からない。折角なら今したい事を今するほうが、悔いなく過ごせそうだと思う。
だから僕は思い描いた僕に成り切って生きていこうと思っている。誰にも拒まれる事はないし、否定されたって気にせず肯定できる僕自身がいる。その望みと好奇心と湧き出す気持ちを僕は大事に守って生きたい。
夜風に頭を冷やして。
冷静になった。と、唐突に自分に四角い吹き出しを付ける。眼鏡を掛けずに何日を過ごしただろう。最早裸眼でも生きれる気がしてきた。しかしながら、シルエットとして手放せないため、間違っても常用の視力矯正でコンタクトなんかにはしないだろう。
風の強い夜は好きだ。多分どの季節の夜も愛している、と大袈裟に思えるぐらいには好きだ。その時の感性で動きたい僕にとって、好き嫌いなんて、一瞬の感情だと思い込んでいる。
欲を言えば、自分好みの相手から永遠と好きだと迫られていたい。普段はツンとした態度を取っておいて、時折受け入れて、ぐだぐだに溶け込んで僕に流れ着いてしまえばいい。戻る道も気にせずに、ただ僕の方だけを向いていて、しっかりと僕が余所見しないかを見守っていてほしい。好かれていると知っている僕は、滞る事なく友情を恋情に持ち寄って、隠れずとも誑し込みたい訳だ。女の子特有の「いつか本気になってほしい」という欲望に似た恋心を、一つずつ丁寧に愛したい。「そうだね、僕はいつか君が好きになるかもしれない」と言いながら。
薔薇が咲いていて、その棘がどれだけ鋭くても、見る人によれば「そんな棘」とそれを個性として受け入れる事もあるだろう。全てを好きにならずとも、受け入れる事は出来るはずだ。好きな相手の嫌な部分をどれだけ認めるか、というのも一つの愛情だと思っている。
男も女も変わらず、感情で生きる生命体だ。特に人間なんて、表現の仕方が複雑で、どれがどういう感情かなんて他人には分からないものだろう。
僕の世界は小さくて、規律や道理に適わない事は悪しとする風潮がある。自分が受け入れられない事を「あり得ない」の一言で切り刻む。それだけならまだしも、次に出るのは「君の考えは可笑しい、間違っている」という言葉だ。
最も、人と違う事をすれば首を刎ねられるとでもまだ思っているのか、多数派が正しいと自分の考えを殺したりする。行き場のない反抗心は、闇へと堕ちていく。絶望感や虚無感は、時に狂気と成り果てるかもしれない。その挙げ句、狂った部分は悪しとし、隠すものだから、人を殺めたり自分を棄てたりする行為を陰で平然とやってのけるようになる。誰もがその狂気を持ち合わせて、日に当たる地を普通の服を着ながら這っているのだろう。
人間の順位は、顔の造りや容姿、能力などで決まる。平等という言葉がある限り、僕らは不平等を脳味噌に叩き込まれながら生きる。本当に平等な世界であったなら、その言葉は生まれなかったはずだ。当たり前の事には説明を省く人間だからこそ、僕はそう考えている。
荒々しい風は、進路なんて気にしないみたいに吹き通り、過ぎていく。
冷たくて強くぶつかる夜風に、なんだか自分を叱ってほしい気がした。と同時に、僕をゆっくり包んで撫でてほしいとも思う。
感情なんて無きゃ良かった。もしそうなら、思い悩む事も、混乱する事も、喜ぶ事も悲しむ事も、一切無かっただろうに。
心地良さと痛みだけを感じられたんだろうに。
以上です。