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夏の終わり、何度だって向日葵は強く咲く。【木村文紀 引退】

なんでだよ。まだやれんだろ。
一報を受けての率直な感想はこれだった。また一人、より深い思いで応援を続けてきた選手が、引退する。

9月18日午前7時半すぎ。祝日だというのに母親が私を呼んでいる。目覚めたばかりなのに、やけに冷静な脳みそに浮かんだのは文紀が昇格したのか、それ以外かということだけだった。前日に五十幡の骨挫傷が判明し、外野選手の昇格も考えられると思っていたからだ。というよりも、今シーズンの残り試合数も僅かなタイミングで、ベテラン陣の中で唯一エスコンフィールドに呼ばれていないのは木村文紀だけ。そろそろ呼んでくれないと一一。抱え続けた不安は的中したのである。

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木村文紀との出会いは西武ドームでのライオンズ戦だった。いつだったかは記憶にない。野球に興味を持つようになり、球場にも足を運ぶようになった頃には彼は西武ライオンズの外野手をしていた。 最初の印象は守備の下手な外野手。例え誰かが「彼は打撃が良くてね〜」とか言ってくれても、ずっと守備が下手くそな人というイメージが抜けなかった。無論、彼がプロ入団後に野手転向したことはちゃんと後に知るけれど、それを知ってからも時折バンザイして打球をグラブに収められない姿には愛おしさすら感じていた。西武ドームのライトスタンドでその背中に向かって「がんばれ〜!」と敵ながら応援していたのをよく覚えている。

背番号が1桁になるということは、その人がチームの中心選手と認められた証だと思っている。木村もまた、その1人だった。現在はドラ1ルーキーの蛭間が背負う「9」をもらっていた木村は、きっとこのまま西武ライオンズで引退する選手のひとりなんだろうなと当たり前のように考えていた。だが、その日は突然にやってきた。西武ライオンズと日本ハムファイターズの間でトレードが行われたのである。ハムからは平沼・公文、西武からは佐藤龍・木村がそれぞれ出されることになった。腰の怪我を多く抱えていたとはいえ、背番号9がトレードに出されるとは思ってなかった。それでも少しの驚きを感じた後、とても喜んでいる自分がいた。大好きなファイターズに彼がやってくる。ファイターズの木村文紀としての2年は、全く長いものとはいえなかったが、とても濃い時間となった。

ファイターズの木村文紀として個人的に思い出に残っている試合がある。まずはチームに合流して最初のお立ち台へ上がった試合。2021年8月31日のオリックス戦だ。なかなかハムでの初安打が出なくて、もどかしい時間だった。初安打の試合は、共にライオンズからトレード移籍してきた佐藤龍世とのヒーローインタビューとなったことも含め、運までも味方したようなそんなひと試合だったと思う。それから2022年7月13日の静岡草薙球場での楽天戦も忘れられない。則本・ポンセ両投手の投げ合いのまま折り返し迎えた7回。先制を許してしまったが直後にその打席がやってくる。2死2・3塁。初球のストレートを空振りしたあとの2球目だった。雨の中を鋭く強い打球が夜空を駆け抜けていく。ここまで力でねじ伏せてきていた則本もガックリと膝をつくほど、鮮やかで決定的な一打は木村文紀らしさを象徴する勝負強いバッティングだった。迷いのないスイングは監督も絶賛する美しいものだった。もうひと試合は、特別なにか大きなプレーがあったわけではないが、同じく2022年9月19日の試合を上げたい。札幌ドームラストイヤーだったこともあり、私自身中学生以来の札幌ドーム観戦をしたこの日。北海道移転後の最初のユニフォームであるクラシックユニに袖を通した木村文紀をこの目で見れた感激は、今も鮮明に覚えている。あの日から一年後、彼がユニフォームを脱ぐことになるなんてあの日の自分も、なんなら今年一年ずっと想定していなかった。

話は変わるが、私は今でもとあるSNSの投稿が頭から離れないでいる。それは、木村文紀の写真を鎌ヶ谷球場で撮影し、過去のスイングフォームと比較してその方が自分の考えを記述したものだ。その方の考えによると、腰の怪我が多かった木村はその影響で打力がダウンしていたのだが、その頃と比べると今年は何やら調子が良さそうだというのである。実際は腰だけでなく、足首や膝、脇腹までも負傷してボロボロだったわけだが、確かに試合出場機会は少ないけれどベテランらしい成績を残していたと思うし、頼り甲斐があり存在感も遺憾無く発揮していたと思う。たくさんのホームランを今季も見せてもらったし、まだまだやれるだろうと思っていたし、きっと一軍に呼んでもらえると信じていたからこそ、さすがに発表された日は今まで感じたことないくらいの脱力感というか喪失感に襲われた。行こうか迷っていた西武戦が最後の試合だというし、アルバイトが運良く一週間休みになっていて、もうこれは神様が呼んでるんだと思った。急ぎチケットを確保し、ベルーナドーム最終戦へ向かうことを決めたのである。

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2023年9月20日。秋の空気を少し感じさせながらも、所沢は相変わらず蒸し暑かった。球場が近づくにつれ真っ黒い雲が空を覆っていて、ファイターズの練習が始まる頃には大粒の雨が降っていた。涙雨を通り越して大号泣雨を降らす空は、雷鳴を轟かせながら強まる雨で1m先が見えなくなるほどだった。

ドームだというのにミストを全身で浴びてびしょ濡れになっていた頃、打撃練習を開始した木村文紀の姿を確認した。レフト線に何度も鋭く強い打球を放ち、本当に今日引退するのか?と疑いたくなるほど、素人から見たらまだまだやれそうな雰囲気を醸し出していた。アイドルでも卒業発表した後に綺麗になっちゃうことがよくあるが、それに似たものなのかなとも思う。そういえば過去に現監督の新庄も、引退を発表した途端に身体の痛みがなくなったとか言っていたことを思い出した。

打撃の練習を終えると、八木打撃コーチと会話をしたあと、センターの辺りに立って練習を見守る監督の元へ駆けて行った。いくつかの言葉を交わした最後、木村が監督にお辞儀をすると監督は手を取り握手をした。その後は松本剛と共に森本コーチのノックを受けていた。まずはライトで、続いてレフトと両翼を難なくこなしていた。身体の重さも動きの不自然さも全くない。ますますなんで引退を選んでるのか分からなくなってしまう程に、見ていて気持ちのいい守備だった。若さ溢れるアグレッシブな守備ももちろんかっこいいけれど、静かで繊細かつ安定した守備こそベテランのなせる技だなと感じた。

スタメン発表時、ウグイス嬢の鈴木あずささんの粋な言葉がけから始まった。西武ライオンズとの最終戦に入るのが初だったから、今までもこういう演出だったのかもしれないけれど、今日はより特別な最終戦なんだなと胸が熱くなる。心做しかあずささんの声も上擦っているような感じがして、目頭も熱くなった。

4番ライトでスタメン出場となったこの試合、守備には3イニングついていた。ライトで2イニング、レフトで1イニング。監督の粋な計らいのもと、両チームのファンの応援団の前で背中を見せてくれていた。守備機会こそなかったが、アウトカウントやボールカウントごとに変わる守備位置をベンチや万波・松本剛に確認をしたり、フェンスとの距離感や両翼の締め具合などを一球一球丁寧に確認しながら守備についていた。念入りに準備をし、手を抜かないのは木村文紀のらしさが全開だった。

打席では2度、先発の渡邉勇太郎と対戦することになった。最初の打席は2死1塁の初回。ライトに大きく上がった当たりは、かつて自身が背負った背番号の継承者となったルーキー蛭間のグラブに収まった。次の打席は1死走者なしの4回。初球を強く振り抜いてレフトへ。捕球体勢がやや背を向ける形になったこともあり、全速力で突っ走り2塁打とした。その後マルティネスがレフトフライに倒れた際、レフトからの返球が乱れるとすかさず3塁を落とし入れた。奇しくも得点には結びつかなかったが、素晴らしい集中力を見せてくれた。

走攻守全てにおいてその魅力を存分に発揮した木村文紀を、両軍の選手やファンが温かく送り出す空間は特別だった。真剣勝負だけど敵も味方もなくて、ただそのプレーを称賛する。この場所にいられたことは私の最高の宝になるだろう。

対戦相手の選手となったのにも関わらず、BREATHEの「Share Happiness」とTUBEの「ひまわり」をかけてくれたライオンズの関係者の配慮にも感謝したい。敵地でありながらセレモニーまで用意していただけたことも、球場外のフラワースタンドの数がすんごいのも、ベンチ外や二軍降格中の選手たちも多く駆けつけたことも、全部木村文紀という野球人が多くの人に愛された証だなと感じた。彼を最初に見た場所で見送ることが出来て本当に幸せだった。

西武球場に足を運ぶ機会が多かったことと、彼がライトの守備につくことが多かったことが偶然に重ならなければ、木村文紀をこんなに深く応援することにはならなかったかもしれない。ファイターズへのトレードがなければ、こんなに推すこともなかっただろう。彼が野球選手として存在した時間のほんのわずかな間だったけれど、応援させてもらえて本当に嬉しかった。逆転ホームランもレーザービームも、それだけじゃない数々の素晴らしいプレーを魅せてもらえて幸せだった。たくさんの感動をありがとう。17年間、本当にお疲れ様でした!

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