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死後浴室が公開される

とうとう更新日の20時半からnoteを書き始めるようになってしまった。助けてください。

先日、東京都庭園美術館に行ってきた。皇族の邸宅が現在は美術館として利用されており、毎年夏の間だけ建物が一般人向けに公開され、写真も撮ることができる。

一番良かった星型のランプ 首を真上にあげないと気が付かない場所にある

ランプや飾り窓、壁画など意匠を凝らした内部は見応えがあった。並々ならぬ情熱を傾けて作られた邸宅は迫力があり、死後もこうして沢山の人々が訪れるような家に住むのってどんな感じなんだろうなと思った。想像もつかない。

静かな浴室

皇族が毎日入っていた風呂も公開されているのにはちょっとウケてしまった。死後に風呂が公開される人生…と思いながら浴室を眺めた。大理石とタイルの立派な浴室で、館内でもここだけ特別静かな感じがした。既にこの世を去った人の風呂をこんなにまじまじと見るのは初めてだった。今後も2度とないかもしれない。

他はずっと本を読んだりしていたので本当に書くことがないな…。
実は庭園美術館の感想の後に500字くらい最近の生活に関する雑感を書いたのだが、前回のnoteと同じく”ここに書いてあること、全部嘘だ…”の波が再び来てしまい、全て消した。

https://www.amazon.co.jp/dp/B08XV3DN3T/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

最近は中島義道の『後悔と自責の哲学』を読んでいて、これはかなり面白い本なので紙で買いたいなと思ったのだがどこにも流通しておらず、泣く泣く電子書籍で通読した。

このnoteにも書いたが、なぜ没頭は永遠に所有できないのかというのは私の長年の疑問で、人生の中でたまに熱中できるようなことを見つけても、その輝きは長くは続かず色褪せてしまうことにずっとがっかりしてきた。

人生は同じようなエピソードの連続として捉えることも(昨日も今日も明日も私は同じ道を通って仕事に行く)、唯一無二の現象の連続として捉えることも可能である(同じ道を通っても、電車に乗り合わせた人や道ですれ違う人は必ず全て違う)。
人生を同じようなエピソードの繰り返しとして捉えるが故に、偶に意味のあるようなことに出会うと、それが運命のように思えて夢中になる。でも、その没頭は永続せず、私たちはやがて飽きて放り出す。運命のように思えたのにとがっかりする。
しかし、先ほど述べた通り、人生は実は同じようなエピソードの連続ではなく、日々唯一無二の現象が目の前で起こっている。目を見開いてみれば、昨日と今日の同じ道は細かいところでは異なっている。同じようなエピソードだと感じるのは、私たちの心がその差異に意味を見出していないからなのだ。
つまり、人生を退屈と感じるかどうかは自分の心の持ちようなのか?でも、そんなのは自己啓発めいている。つまらない結論だ。
この人生が虚しいのは間違いない。でも、虚しさという深淵を見つめながら、いや、人生には何か私を面白がらせる真実があるはずだと追い求める態度が哲学なのかなと、最近は哲学書を読みながらそんなことを考えている。

Big Love…