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1960年代前半と後半の学生運動について

昨日は、スピノザについての國分功一郎氏の解説の要約を4千字以上の記事を投稿したので、今日はいささか虚脱状態です。

投稿記事のネタは、基本的には読書した本の中から、触発されたことを書いていくというスタイルを保っています。

今回は、どんよりとした状態なので、軽く以前読んだことのある「大江健三郎と柄谷行人の対談」本を取り上げます。

定年退職後に、マルクスの資本論を学びたくなり、古本屋で『資本論』をまとめ買いしました。しかし、まったく内容が理解できずに、挫折を繰り返していた。

何の知識もなしに、いきなり原本に挑むのは無茶なことだと知り、まずは解説書を読むことにして選んだのが柄谷行人著『マルクスその可能性の中心』でした。

これも中々難解な書でしたので、すぐに理解できたわけではなかったが、徐々に頭の中に入るようになった。

それ以来、柄谷を気に入るようになり、次々と購入した本を読みながらEvernoteに読書メモを作るようにしていた。

気持ちがすぐれなくて鬱々としたときは、この読書メモに目を通すことによって、元気になっていました。

そのことを思い出して、今日は久しぶりに柄谷本を紐解くことにした。

以前にも、この対談本について、投稿していますが、その時には気づいていなかったことを取り上げます。

柄谷: 確かに戦後文学の人たちは巨大な矛盾を抱えていました。しかし、それは明治以来の日本の矛盾の総体を抱えているとはいえません。たとえば、彼らは、大江さんが『万延元年のフットボール』で書かれたような民俗学的なレベルにはあまり関心がありませんでした。彼らはある領域を捨象しています。

『万延元年のフットボール』は、一九六〇年の安保闘争が素材になっています。そして、そこに百年前の万延元年が重ねられている。僕は、六〇年の安保闘争は、六〇年代後半の運動とは異質だと思っています。六〇年代後半の運動は高度経済成長後のものであり、また世界同時的なものです。

しかし、六〇年のそれは、明治あるいは幕末以来の日本の経験の総決算としてあったという気がするのです。明治以来の、さまざまな落差や矛盾の問題がそこに集約的にあらわれたと思います。

大江健三郎; 柄谷行人. 大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人 (p.97). 講談社. Kindle 版.

柄谷は「60年の安保闘争に明治以来の諸矛盾が集約的にあらわれたと主張したのは、実は『万延元年のフットボール』を読んでからそう思うようになった」と述べている。

大江健三郎には、関心がなかったので、『万延元年のフットボール』を刊行したころも、ノーベル文学賞受賞後も読んでなかった。

大江の言動が、あまりに偏った印象があったためだと思うが、この対談本を手にしてから『万延元年のフットボール』を読むことにした。

柄谷は、中上健次と村上春樹のことを次のように語っています。

中上健次はフォークナーの影響を受けたことは事実だけれども、もっと前に、『万延元年のフットボール』の影響を受けています。彼の『枯木灘』は、中上版『万延元年のフットボール』です。村上春樹の『1973年のピンボール』は、明らかに、『万延元年のフットボール』のパロディですね。

大江健三郎; 柄谷行人. 大江健三郎柄谷行人全対話 世界と日本と日本人 (p.95). 講談社. Kindle 版.

『枯木灘』は読んでいないので分からないが、『1973年のピンボール』は、確かにそう思えます。

柄谷は、「六〇年の安保闘争は、六〇年代後半の運動とは異質だと思っています。六〇年代後半の運動は高度経済成長後のものであり、また世界同時的なものです。」と述べている。

60年後半の運動については、『現代哲学の挑戦』で船木亨氏は、次のように叙述している。

一九六八年五月、フランスで五月革命が起こりました。当時、 ドイツ、アメリカ、日本などで拡がっていたスチューデントパワーによる学園紛争と似ていますが、 労働者を巻き込んでゼネストにいたり、革命前夜の体をなしたところが特別でした。

そのきっかけは、まったくライヒの主張していたとおりでした。 女子寮に忍びこんだ男子学生の 処分という、性に関する事件を巡って、大学側と学生側が対立したのがきっかけだったのです。

五月六日には、カルチェラタンを二万人の学生がデモ行進をしましたが、 そのデモには、ライヒやマ ルクーゼの写真が掲げられていたそうです。そして五月十日には「バリケードの夜」と呼ばれた、 学生と機動隊の激しい衝突が起きてパリ市内が修羅場となり、二十日には、全国の八百万人の労働者が参加した大規模なゼネストとなりました。商店は店を閉じ、交通網は麻痺し、ひとびとは当時のドゴール大統領の退陣を叫んで、あたらしい社会を求めたのでした。

そのとき、はたしてベンヤミンが期待していたような「神的暴力」が出現したでしょうか、もう 少しのところだったのでしょうか。 ドゴール大統領は、野党各党を抱きこみ、政府のもつ多様な権 を駆使して、対抗措置をとりました。

そして、五月三十日の国民への演説をきっかけに、 革命運 動は終息していきました。 何より、革命を指導するはずのフランス共産党は、その組織を使って、 ゼネストを妨害する側に回っていたのでした。先進資本主義国で起こると期待されていた真の共産 主義革命がフランスで成立するのかと耳目を集めた五月革命でしたが、政府に所属するひとびとや、 労働者組織に所属するひとびとは、現状維持を望んだのでした。

多くの知識人たちが深い失望に襲われました。 五月革命のあと、一九七二年に、ドゥルーズとガ タリの共著、『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症I」が出版され、ベストセラーになります。ひとびとは、それを五月革命の決算書として読みました。 ラカン派のなかにあって異端で あった精神分析医のガタリが、 五月革命の破綻を深刻に受けとめた哲学者ドゥルーズに出会って、 触発しあいながら生みだされた書物でした。

『現代哲学の挑戦』P209

共産党といえ、いざとなれば急激な革命は望んでいないのでしょう。それは、フランス革命、ロシア革命の顛末を人々は知っているからでしょう。

ドゥルーズとガ タリの共著、『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症I」にしても、五月革命の説明書にしかすぎない。

日本にいたっては、高度成長期であり、ひたすら経済発展のみにひた走り、地震国に関わらず、大した抵抗も受けずに、原発を作りまくったあげく、事故まで発生させてしまい終了したという感がある。

これも、1968年以後、左翼は腰抜けとなるが、極右が台頭し、政権の補完勢力となった結果、今日の裏金という腐敗政治が跋扈するようになったということでしょう。

昨日の補欠選挙で島根という岩盤保守の県で、野党が圧勝したというのは、微かな明かりとなるのでしょう。今回は、単なる、お灸という程度ではないものと思えます。

裏金という極めてズルいことを行っていながら、それをなかったかのように見え透いたウソをばらまいている有様には、有権者も呆れかえったためだと思いたいものです。形の上では立憲民主党の勝利となるが、誰もそんなことを思っていないでしょう。

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