「自己意識の自由」とは
憲法上で認められている自由権には、国家権力によって侵害されない個人の自由、つまり信教・学問・思想・言論・集会・結社・職業選択・居住・移転等の自由がある。
こうして、改めて、自由権を眺めてみると、かなり国家から侵害されているものがあるようだ。つまり、国家は憲法違反を犯していることに、あまり自覚的ではないように見える。
フランス革命前後では、人間の最大の欲望は「自由」だった。そこで、カントは自分の哲学原理として、人間の本質は「自由」であると説いた。
なぜならば、それまでの考え方は、人間は神の被造物なのだから、自由きままに振舞うのは許されなかったからだった。
カントは、神が人間を「自由」な存在として創ったという考えを取らなかった。もちろん、自由とは単になんでも好きなことをする、ということでもない。
人間は基本的に欲望と理性というのがあるが、欲望に負けないで理性に基づいて判断し、行為する自由を持つことが必要だと言うのである。
つまり、「善」へ目がけて意志することが人間的自由の本質ということであった。
なんだか、変な自由の定義ではある。
一方、ヘーゲルはカントのこの考えを鋭く批判しながら「自己意識の自由」と言う考えを提示した。
「自己意識の自由」とは何か?
人間は誰でも、「自分の大切と思いたい」「立派で素敵な私でありたい」という本性的な欲求をもっているということだ。
確かに、自分を内省してみると、そうした欲求はあることは確認できる。
ヘーゲルによれば、人間の「自己意識の自由」(私への欲望)は、親や友だちや世間の人間たちとの間での承認を通してしか実現しない、ということだ。
ヘーゲルは『精神現象学』で自己意識が、思春期から青年期にかけて、世間にもまれながら発達していく様子を描いている。それは次のようなことである。
ストア主義(禁欲主義)
人間の理想は、自然の秩序にかき乱されずつねに精神を平静に保つことにある。自分だけで自己意識を満たそうし、他の人が認めてくれないので、自分の中だけで自由を得ようとする態度。スケプシス主義(懐疑主義)
どんなことにも確実なものはないということ、つまり万物の相対性を強調する態度。
自分のことを認めないのは、他者が愚鈍だからであると常に、他者の批判ばかりすることで、自分の価値を相対的に高めようとする態度。
人の議論の揚げ足をとる、斜に構える。「ああいえばこういう」と言って、どんな意見にも大した価値がないことにしてしまう態度。不幸の意識(高邁な物語)
若者は、絶対的な理想に憧れるのだ。キリスト教なら「ほんとうに純粋な神への献身と信仰」が、マルクス主義なら「人民と革命の達成のための自己犠牲」が要求される。
これは目標の高い自我理想であり、高邁な物語である。だが、現実の自分は未熟であり、ここに大きなズレが生じる。この大きな分裂の意識に引き裂かれる。この分裂の意識が「不幸の意識」である。
このようなヘーゲルの自己意識の自由」という考え方は、現実肯定 の理論であるといった批判が根強くある。
哲学者竹田青嗣氏も長くそういう感覚をもっていたそうですが、次のように述べています。
ヘーゲルはカントの批判ばかりするので、いや~なヤツという思いを持ち続けていたが、竹田氏、苫野一徳氏達が、やたらとヘーゲルを評価しているので、見直すことにした。ヘーゲル批判の解説書に影響され過ぎていたことを認識しているこのごろである。ヘーゲルは自己意識というものを発達的に、つまり時間性を考慮した見方であることが分かる。
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