無意識の本質洞察
外部的な世界構成(信憑構成)と内部的な信憑構成は本質構造に違いがある。
外部については、直接的な周囲世界、日常世界、そして自然世界の存在現実性と客観性は、われわれの物理ー生理的身体との因果連関的相関性において、また他者との相互確証によって、たえざる間主観的な妥当性が生じている。
しかし、内部の信憑構成については、他者の心、人格、無意識を物理的連関によっては検証しえず、第一に他者身体(言葉を含む)の表現性を介して、第二に、相互的、間主観的関係行為による信憑形成においてのみその妥当性を形成する。
心理療法においてもシャーマン的治療においても確信は、原理的に「共同確信」にとどまり普遍的確信に達することはない。
動物にあっては無意識は存在しない。自らの情動、欲望、関係態度を対象化すること自体が存在しないからである。
他人から無意識を指摘され、それを認めること、あるいは自ら気づくことであれば、無意識が存在することになる。
それゆえ、人間にあっても他人が何言おうと我関せずという人にとっては、無意識は存在しないことになる。
確かに、何気に行為したことを、自分で気づかなかったとき、他人から指摘されて、ハットと我に返ることはあったが、それを無意識と言うのだ、と竹田青嗣氏は主張している。
また、無意識のうちに抑圧されたあるものが現在の身体性へと回帰するとする考えも、一つのオトギバナシにすぎない、と述べる。
フロイトはこのうち後者の領域を探索し、それが非合理な力として働きかける側面を無意識における抑圧されたリビドーの力動性として仮説したが、このリビドー的力を実体化=本体化して考えた。
だが、竹田の現象学的ー欲望論的観点からは、フロイトが無意識の名で呼んできたものは、「関係的身体」の、すなわち「幻想的身体」の体制と呼ぶべきだと言う。
無意識が存在するという信憑は、すでにわれわれ自身の関係的身体性=幻想的身体性(情動、欲望、関係態度、美意識、倫理感)に対する存在信憑であり、またそれに働きかけようとするわれわれの存在配慮を意味する。
参考図書:竹田青嗣著『欲望論』 第2巻
「価値」の原理論
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